■軽井沢の歴史01  02  03
■軽井沢の歴史04  05  06
■軽井沢の歴史07  08  09
■軽井沢の歴史10  11  12
■軽井沢の歴史13  14  15
■軽井沢の歴史16  17  18
■軽井沢の歴史19  20  21

■軽井沢の歴史22
■軽井沢の歴史23
■軽井沢の歴史24
■軽井沢の歴史25
■軽井沢の歴史26
■軽井沢の歴史27
■軽井沢の歴史28
■軽井沢の歴史29
■軽井沢の歴史30
■軽井沢の歴史31
■軽井沢の歴史32
■軽井沢の歴史33
■軽井沢の歴史34
■軽井沢の歴史35
■軽井沢の歴史36
■軽井沢の歴史37
■軽井沢の歴史38
■軽井沢の歴史39
■軽井沢の歴史40
■軽井沢の歴史41
■軽井沢の歴史42
■軽井沢の歴史43
■軽井沢の歴史44
■軽井沢の歴史45
■軽井沢の歴史46
■軽井沢の歴史47
■軽井沢の歴史48
■軽井沢の歴史49
■軽井沢の歴史50

軽井沢の歴史-40 三笠ホテル

 明治37年(1904)、山本直良(15銀行役員)は三笠山の麓の湯沢一帯約25万坪を買収して、三笠ホテルの建築に着手しました。設計は岡田時太郎、監督に佐藤万平、棟梁は地元大工の小林代造でした。建築様式はアメリカのスティックスタイル(木骨様式)、戸のデザインは英国風、下見板はドイツ風で、用材は小瀬の赤松を現場で製材して建設しました。

 明治38年秋に落成式を行い、翌39年の5月に営業を開始しました。客室30(内ダブル10室)宿泊料一等12円、2等8円、3等5円(普通の旅館は1円〜2円)でした。

 開業当時の記念パーティの写真には、ガス燈のシャンデリヤの室に大テーブルがおかれ暖炉の前に毛利夫人、その両側に近衛・徳川公爵・西尾子爵やその夫人たちが並び、ひげの山本直良や有島武郎がみえます。

 明治39年(1906)5月から8月初旬までの宿泊者46人は全部外国人で、住居の欄には東京・横浜・大阪のほか、上海・ホンコン。マニラ。ロンドンの都市名と、イングランド、アメリカ、フランスなど国名だけの記載が見えます。

 明治41年の8月中旬までの43人の宿泊者の中には、乃木希典夫妻と「おたか」の記名があり、このほか東京の木下・中村と漢字で善かれたサイン、そしてローマ字で善かれた4人の日本人らしい名前が見えます。乃木大将もM.S.NOghiと横文字で書き、その下に乃木静子と漢字で書き、さらにその下にOtakaと女性の名前が善かれています。

 明治40年8月には日本館が完成して日本人の宿泊客が増えますが、乃木夫妻の外に住友吉左衛門、渋沢栄一、薄儀壬、井上準之助、幣原喜重郎、団琢磨など、財界人・外交官のほかに清朝最後の皇帝の名前があり、利用していることがわかります。

 山本直良はホテル業のほかに、明治30人年京都の陶業家宮川香山・井高帰山等を招いて三笠焼を開窯、40年には東京博覧会に出品しました。またあけびづる細工、ろくろ細工、軽井沢彫を奨励して三笠商店を設けて販売しました。そのほか、外国人の食事用として緬羊10頭を飼育し、疏菜の栽培や植林を行うなど、観光と産業の一体化をはかりました。
明治43年(1910)8月、軽井沢全域が洪水にみまわれました。一ノ字山が崩壊し、軽石を含んだ水によって三笠ホテルの日本館が流されるなど大きな被害を受けました。

 この大洪水は一ノ字山の崩壊をひきおこし、火山灰と軽石が混った濁流が低地へ流れ下りました。このため別荘全壊18戸、破損29戸、流失19戸を数え、二手橋付近からあふれた水は、旧軽井沢の商店街を流れ下り、浸水家屋370戸という大きな被害を出しました。とくに旧軽井沢南部の低い部分にあった別荘の被害が大きかったです。このため風光明びな小高い場所を好んだ外国人の別荘は、以後より一層高い場所に建てられるようになりました。

 水害のあとには多量の軽石や火山灰が堆積しました。とくに軽井沢駅の北側一帯は、水はけが悪く湿地のような状態でした。駅の南に流れ下った矢ヶ崎川は、急流によって大きく侵蝕され、深い谷をつくりました。この谷ができたことにより、湿原はそれまでより乾燥した草原に変わっていきました。
北軽井沢物語軽井沢観光ガイド軽井沢グルメガイド