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軽井沢の歴史-39 万平ホテル

 別荘を持たないで旅館を利用して避暑をする人も多かったです。明治23年(1890)頃から旧軽井沢の旅館亀屋では、夏の間外国人に貸間を提供していましたが、26年、それまでの旅舎の一部を改造して外人向けの貸間をつくり好評を博しました。翌27年には洋風建築に改造し、大規模な家屋の改築を行って「亀屋旅館」から、「万平ホテル」へと改称しました。
 当時の平面図をみますと、中山道に面した6間にガラス戸と格子窓をつけ、玄関の左にパーフトン上がるとロビー、右にフロントを置き、食堂とバーをつくりました。山階の奥に4部屋をとり、南の室にはベランダをつけました。2階には9室ありましたが、道路に画した部分にはガラス戸と手すりをつけました。畳を取り除いて洋間にし、ベッドは木のわくに絶を張ってその上にふとんを敷いて毛布をかけるなどの工夫をしました。しかし、本館は嘉永5年(1852)の建築であり、室と室の間はふすまで仕切られ、風呂や便所が日本式であったために外人客になじまない面もありました。

 明治35年(1902)万平ホテルは、桜の沢約2万坪の土地に洋室二二重をもつ洋風ホテルを建設して移転しました。外国人客は、小高い所、乾いた土地、浅間山の見える景色の良い所を好みますので、2つの沢をもち、きれいなわき水の流れるこの地は最適でした。周囲の山の手には外国人別荘もあり、静かな美しい土地でした。

 設計監督には佐藤万平自身があたり、小諸の大工によって建てられた万平ホテルは、中央に玄関とバルコニーをそなえ、2階にはベランダとしゃれた手すりをつけた堂々たるものでした。かざり屋根の正面には英語で、MAMPEIH0TELと入れ、庭には他に木橋、あずまや、石燈寵を配して日本風の庭園をつくりました。

 新しいベッドを入れ、室のすみには「ポー」と呼ばれる便器を置いて、用がすむと係員が外に運び出しました。食堂には日本人のコックを雇い、町から仕入れたパンや肉を使って西洋料理を出しました。明治38年には日露戦争の戦勝記念として、正面に浅間山を望む「浅間館」を増築して充実をはかりました。

 軽井沢にこのような洋式ホテルを誕生させた佐藤万平は、明治元年(1868)小諸在柏木の小山家に生まれ、17歳で村の学校で助教をしていました。20歳で佐藤家の養嗣子となり、東長倉村の書記をしたこともありましたが、東京聖公会神学校に入学、キリスト教を学び外国人宣教師にも接しました。24歳で神学校を卒業後、郡山、沼津の教会に派遣されて布教活動に入りました。26歳の時沼津より帰郷した彼は、養父の意志をついで旧式旅館の一部を改築して外国人客のための貸間を考えました。この年を契機として大規模な改築へ、さらに桜の沢への移転を行って本格的な西洋式ホテルの経営を行うことになりました。そこには、神学校入学から牧師時代に接した多くの外国人の生活と、衰微した軽井沢宿の回復とを統合させた経営感覚がはたらいていました。

 佐藤万平は、ディクソン一家に家を貸して以来、ディクソンをはじめその友人たちの避暑のために旅館、間貸し、別荘にと便をはかっていました。新道と鉄道の開通によってさびれた宿場と先祖代々の家業の復興を、増えてきた外国人客にしぼりました。古い旅寵を改造し、さらに外国人のための近代的ホテルを外国人の好む場所に新築しました。このホテルの出現によって、別荘を持たない外人避暑客も軽井沢で避暑をすることができるようになりました。

 日本式旅館で一泊80銭だった当時、一泊入門と約10倍の宿泊料でしたが、明治時代の外国人講師は、日本人に比べて給料が高く、さらに貿易商や外交官の中には経済的に恵まれていた人が多かったですので、暑い夏の間は宿泊客がかなりありました。

 MAMPEIH0TELという名前も外国人が発音しやすいことからつけられ、今も正面にかかる横文字の看板は、外国人が書いてくれたものをそのままかかげています。アレキサンダー・クロフト・ショーが、宣教師を中心とした別荘地発展に大きな影響を与えたと同様に、万平ホテルがそのほかの階層の外国人避暑客の誘致に大きな役割をはたしたと考えてよいです。

 今も万平ホテルに保存されている明治37年(1904)からの宿帳を見ますと、ホテルに宿泊した人々の名前・国名・住所が記入されています。外国人独特の書き方で判読できない住所や国名もありますが、イギリス、アメリカ、オランダ、ハンガリー、ノールウェー、ドイツ、カナダ、フランスなどの各国人の住所をみると横浜、東京、神戸といった日本国内で外国人が多く住んでいた都市名のほかに、上海、ボンベイなどアジア各地から釆ていることが注目されます。

 また、日本人の宿泊者もわずかこの中に見えますが、外国人にならって横文字で書かれているのは技術や学問ばかりでなく、西洋風の生活様式までも身につけようとする当時の上流社会の人々の生活の一端がうかがえます。
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