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軽井沢の歴史-38

 明治39年(1906)日本女子大学の夏季寮が三井別荘の一角に開設されました。三井家の「三」と校長の雅号「三山」にちなみ、智・情・意の泉たれということから「三泉寮」と名づけられました。

 寮は白木造りの寄宿舎風で、三井三郎助民夫人の厚意でつくられました。暑中休暇といっても暑さに負けてしまうのでなく、涼しさの中で思索、研さんをしようというものでした。外国では珍しいことではなく、軽井沢でも明治22年(1889)ミス・アレキサンダーが頒栄女学校生徒20名程を一緒に連れてきて、避暑と同時に林間学校のようなことを行ったという記載がありますが、日本の学校としてははじめてのことでしょう。

 一階の二間、二階の三間に38名を収容、10畳に5、6人が入り、各室には飾りもない質素な木の机が置かれていました。台所は12畳程の板の間で、ガスがま、フライ鍋、テンピが揃い、その隣に湯殿がついていました。食堂は20畳あまり、白木のテーブルに20数脚の畳椅子と長腰掛けが揃っていました。

 費用は上野から軽井沢までの汽車賃と、21日間の食費を加えて8円だけです。献立をみますと、朝はサヤインゲンの味噌汁にウズラ豆煮付、昼は豆腐の田楽と菜びたし、晩はパン、クリヤースープ、牛肉ソースかけ、グリンピー、ポテト、ニンジンのサラダと和洋とりまぜています。

 寮生は、部屋の掃除、食堂の準備、水くみなどすべてを行いました。寮監の平野女史によって修養の外に研究と実習と家政に対する研究、外客に接する実習なども行きました。書棚には和洋の良書が並び、階段の登り口には捕虫網と植物採集胴らんがかけられていました。成瀬校長も近くの別荘に寝起きしてときには寮を訪れて話すことがありました。晴れた日には、碓氷神社の旧蹟や近くの愛宕山や離山、遠くは鬼押出しや布引観音へ行くこともあり、ときには近くの新渡戸博士の別荘を訪れることもしたといいます。

 各科の最上級生の有志をこの寮で研修させ、外国人がみせてくれた高原的生活を味わせながら各科の者が一つ部屋で生活を共にし、互に切磋することをねらったものと考えられます。
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