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軽井沢の歴史-36

 明治30年(1897)には軽井沢合同キリスト教会(ユニオンチャーチ)が創立され、日曜日には9時の礼拝に急ぐ幾組かの紳士淑女が東から北から集まり、あいさつが交わされ、いくつかのグループになって語り合う姿が見られました。祈癌の沈黙に続いて讃美歌が静かに流れていました。

 別荘に住んでいる外国人が午後のお茶(ティ)に招き合うこともありました。子供たちはピーナッツキャラメルを好み、愛宕山への散歩を好みました。日本に滞在していた両親が避暑していた時に身ごもった子供たちは、軽井沢を自分の故郷だといっていました。

 日本各地で布教につとめていた宣教師たちは、夏の2ヵ月は同じ人種、同じことは同じ宗教の人たちと住んで、故郷感を抱き、精神的な安定を得ることができました。年ごろの若者たちの新しいカップルも生まれました。朝夕の霧やアメリカのニューイングランドに似た砂地と雑木林の中に散はる木造りの別荘は、心身の保養に最適の場所となりました。

 別荘に滞在した外国人たちは、娯楽を自然とスポーツに求めました。郊外への散歩やハイキングにはよく出かけました。庭先にコートをつくり、郊外にはベースボールグランドをつくりました。子供はかりでなく大人も嬉々としてゲームを楽しみ、汗を流しました。紳士も淑女もラヶットをにぎりボールを追いました。集まっては野球を楽しみ、スタンドからは声援と拍手を送りました。

 日曜日には野外劇を楽しみ、水曜日にはコンサートを開きました。避暑生活での娯楽は社交的なものと運動会的なものが多くなっていきました。避暑客たちによる「野天演劇」は、庭園の池や水を背景として東西の名劇が演じられました。明治44年には、三井家の庭園でブラウニングの「パイパースパイプ」を演じて好評を博したといわれています。

 また、水曜日の夜には避暑客による音楽会が行われました。町の西北にぁった軽井沢倶楽部では避暑中の紳士・淑女が得意な演奏をし、少女の独唱などが行われました。時には講演会や骨牌会なども開かれ、霧に包まれた夜を楽しんだといいます。しかし、娯楽の中心は運動にあったようです。

「世界は活動するものです。と友人ジャスパーはいいました。軽井沢テニスクラブは、軽井沢の天地の活動を促すために、軽井沢運動の会として花々しく打って出た」(訳は当時のまま)。

とその趣意書の冒頭に書いているように、はじめはテニスクラブとして始まりましたが、明治四十一年の夏に野球部を加え、社交と遠足会をあわせて、軽井沢運動会の組織に改めました。
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