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軽井沢の歴史-35

 明治27年(1894)、それまで人の住まなくなった家屋を別荘として利用していた外国人が、新築の別荘を建てましました。水車小舎の3軒別荘という名で呼ばれ、つるや裏の水路ぞいにつくられた平家建ての同じ形の別荘でした。現在も一部回収されているが2軒が残されています。

 この別荘は、写真によると、浅間山に向かって広いベランダがあって藤椅子が置かれ、夏の涼しさの中で、刻々変わる浅間の景色を味わえるようになっています。ベランダから入ると大きな室があって西の壁に暖炉が据えつけられ、一家だんらんの場所であり客を迎える室でした。東にはドアをへだてて小さい2つの室がつくられ、南に大きい寝室と小さい寝室が配置されていました。中央の大きい室でだんらんし、まわりの小さい寝室でそれぞれが休むという、西洋式の室の配置をみせていますが、ドアばかりでなく日本式の引き戸もつかわれていました。小川に面して地階がつくられ、階段をおりると西に広い台所がとられ、西南にパン焼き器のついたストーブが置かれていました。東にはバスとトイレがつけられていました。屋根は板ぶきで、外壁は横板ばりにステンをぬった比較的うすいもので、夏の2ヵ月を過ごすための質素なものでした。家のまわりには、簡単な竹の柵と門がつくられていましたが、中はすっかり見える開放的なものでした。台所を出るとすぐ前に小川が流れ、炊事や洗濯に利用されていました。

 これらの別荘に住む外国人たちの衣食住でもっとも苦労したのは、食料の調達でした。とくに冷蔵庫の発達していなかった当時としては、新鮮な肉と牛乳を確保するのがたいへんでした。ときには、仲間とともに生きた牛を駆ってきて木につないで草を食べさせておき、必要な時に屠殺してみんなで分けたり、乳牛から直接乳をしぼって煮沸して飲んだという話が伝わっています。

 新鮮な野菜を得るために、雨宮新田の農家にキャベツを作ってもらったのは明治26年(1893)だといわれ、30年頃には盛んに栽培されるようになりました。はじめは、小川の水を飲料水につかっていましたが、赤痢の発生によって、遠くの井戸から人を療んで運ぶなど、今では考えられないような苦労があったようです。

 明治末の別荘数は178戸で、そのうち135戸が外国人で断然多いです。日本人名の別荘は40戸を数えますが、その半数は地元の旅館などの所有ですから、日本人の避暑別荘は20戸内外でした。当時の所有者をみますと、華族、資産家、学者、軍人など名前の知られた一部の上流階級に限られていました。明治39年(1906)から6年間に日本人が所有した別荘が10戸に対して、外国人が所有した別荘は74戸にのぼっていることからも、外国人が多かったことがわかります。

 明治末の避暑客を国別にみますと、アメリカとイギリスが多く、ついでドイツ、フランスと続きますが、実に20ヵ国の人々が訪れていることがわかります。夏に入りますと、軽井沢駅で下車する外国人客は降車客の半数を越え、外国語と高い靴音がホームにひびき、外国の駅頭のようであったといわれています。外国人客は人力車でホテルに向かい、日本人客は旅館の番頭や別荘番に迎えられて旧軽井沢へ向かいました。

 旧軽井沢のまわり′の原や山麓には色あざやかな内・外国人の別荘が建ち、広い野に草花が続いていました。白樺の木を植えた朱ぬりの別荘にはカーテンが見え、ナイフやフォークに皿が並べられて食事の用意をしている姿も見えました。外では小さな子供が小さなシャベルを持って芝生に花を植えるなど、欧米の田舎を感じさせる風景が展開されていました。
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