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軽井沢の歴史-32

 郡会が設置されたのは、明治24年(1891)4月の郡制施行によってでした。定数は北佐久都会では26人(6名は大地主議員)とされました。そのため郡内町村は18区に分割され、一人区16と2人区2つで構成されました。

 大地主議員も法規どおり議員定数の3分の一とし、6人を加えることとしました。東・西長倉村はあわせて一人区となりました。第一回議員は、東・西長倉の村会議員の複選法によって、西長倉村の土屋勘太郎が当選して三十一年まで議員をつとめました。今までは単なる行政区画にすぎなかった郡が、権限の制約はあったものの自治機関として町村の上にできました。そして郡政上の問題につき、合議できるようになったことは、地方政治にとって画期的なことであったといえます。

 第一回北佐区郡会は、明治24年5月20日に郡長によって招集されました。以後大正11年(1922)郡制廃止まで31回の会議が開かれましたが、もっとも力を傾けたものは、教育問題・交通問題・勧業問題の三つでした。議事録によると、31回の各議会とも毎回交通問題が提案され、さながら交通郡会の感さえありました。このことはこの地方の交通が、近代の対外貿易や国内産業育成のなかで、流通動脈として大変革を迫られていたからにほかなりませんでした。

 交通問題の第一は、郡の中央を貫通する中山道の改修でした。陳情委員4名のなかには、土屋勘太郎も加わり運動に当たりました。このとき里道9線を県道に編入の建議もされました。軽井沢には女街道および草津街道の2線があり、陳情や運動が継続されました。だが思うような進捗はなく、郡選出県会議員と連携した運動も好結果をもたらしませんでした。明治28年(1895)の建議案も、29年には郡の自力を 以て施設し経営しようとする県議になりました。その郡土工条規発案請求書は、土屋勘太郎外5名より出され、「殖産興業の発達を促すは交通運搬の利便を開くより先なるはなし」としました。「将来枢要の里道を挙げて郡道とし、郡費を以て改修を施し若くは補助線として、関係町村の負担に堪へざるを補ふの方法を立てんとす」と、郡費で改修をという建議でした。

 32年に至り郡の土木補助費990余円が計上され、以後年々に追加されました。軽井沢関係で対象となった道路をあげますと、
(1)沓掛、国道5号より分かれ群馬県界へ至る里道。
(2)借宿、国道5号より分かれ群馬県界へ至る里道。
(3)軽井沢より峠下に至る里道。
(4)追分、国道5号より分かれ小沼村・北大井村を経て小諸町に達する里道。
(5)追分、国道5号より分かれ伍賀村草越広戸を経て面替を通る里道。
(6)軽井沢停車場より分かれ旧軽井沢に至る里道。
(7)離山より旧軽井沢に至る里道。
(8)旧軽井沢中央(矢ヶ崎線)より分かれ国道5号に接続する里道。
(9)群馬県境より志賀〜三井〜平板〜伍賀の各村を経て発地を通り軽井沢停車場に達する里道の9路線でした。

 こうした多数の里道改修は、全郡で70道を数えました。郡費補助は誠に少なかったですが、衆人の関心を集め、道路近傍の人々の改修協力や村会の協力的な対応となりました。

 明治32年(1899)地方自治の改正が促進され、3月16日に郡制が改革されました。大地主議員が廃止されて町村を単位とする選挙区が設けられ、有権者の直接選挙となり、郡の権限も若干拡大しました。議員定数は30名で、4年ごとに選挙を実施することになりました。

 しかし、選挙権は直接国税を三門以上、被選挙権は5円以上を納入する者と、有産階級による郡政という面がみられました。各村から一名の郡会議員が選出と変わり、東長倉村から長谷川宇平、西長倉村から柳沢儀三朗が選ばれて村を代表しました。
 とくに明治時代に軽井沢地域が郡会で議題となったのは、40年の軽井沢経営に関する意見書を知事に提出したことがあげられます。

 長野県会で議決されたものは、
(1)明治24年の臨時会で、岩村田警察署の軽井沢分署の家屋寄付の件、
(2)明治25年の第15通常会に、軽井沢分署表門寄付の件などの警察関係寄付2件と、
(3)明治41年の31回通常県会に、帝国鉄道信越線の、碓水迂回線に関する意見書が議決された一件の計3件だけでした。

 県会議員は明治10年の土屋平禄だけで、12年の府県会、23年の府県制以後も、明治時代の軽井沢地域からは選出されませんでした。
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