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軽井沢の歴史-31

 明治22年(1889)から新町村制による村政が発足しますと、村長は名誉職制がとられて地方名望家が、内務大臣・知事・郡長の監督下で住民に奉仕することになりました。そのため村長職の拒否・該当なしなど、村長の不在期が東・西長倉にもありました。県下では町村長の八七パーセント(22年)が名誉職、助役も87パーセント(32年)が同様で、有給はまれというのが大勢でした。

 そのため予算の中に占める役場費の給料は多少軽減されましたが、収入役・書記・雇員・使丁などは有給で、役場費の大半を占めました。また23年の小学校令の改正によって、それまで授業料によってまかなわれた学校費が、全額村費からの支出に変わり、歳出の筆頭となりました。教育経常費の増加や教育費の増額、そして義務年限延長(四十年)による生徒増などが主たる原因でした。そのため新校舎建設などはとてもできず、44年の一校新築合併まではお寺学校が続いた(東長倉村)。西長倉村も似たような状況であったと思われます。

 役場費は、村行政の自治化による整備や事務の伸びで年々増加しました。歳入の中には公債費や寄付もありますが、村民の負担にも限度があり、緊急に必要な事業には頭を痛めました。とくに両村とも、伝染病や土木費の臨時支出や復旧工事などに、財政的な制約の中で支出の努力が続けられました。村政は国家行政の末端であり、国からの委任事務である教育や土木などが大半を占めながら、国や県の補助額はきわめて少なかったです。そのため、村独自の固有事務が圧迫され、村民の制限外課税が負担限度ぎりぎりまで賦課され、税の滞納の増加という悪循環をみせました。歳入は財源の八七パーセント(三十八年)もが、東長倉村では村税に依存されていました。西長倉村でも90パーセントを超える年すらありました。そのため戸数割・県税営業割・所得税割・反別割・雑種税割など国・県税の付加税が徴収されました。国や県の税は地租・所得・営業などに課され、年により税額の比率は村財政の40パーセントにも達していました。

 村の乏しい予算をおびやかしたものは、予想できない災害と伝染病者発生などによる臨時支出費でした。また浅間山の噴火、水害などがあり、防止・対応策が常にとられました。明治27年(1894)には勅令で清潔法が定められ、県も施行準則をもうけ、警察と協力して衛生思想の普及と環境衛生向上を図りました。これが地域環境面の大きな進歩をもたらしました。

 28年、郡長に提出した東長倉村清潔法施行順序は、第一条で「村内ノ清潔ヲ主トシテ之ヲ永遠2保続実施スルヲ以テ目的トス」としました。村内を5区に分け、清潔係、補充員各一名が、2年任期で仕事に当たりました。

 村が避暑地化し、鉄道などで外来者が多くなりますと、他地区からの保菌者や患者の心配もでました。他村他地域から入りこむ人々の検査や消毒に注意が払われ、ゴミ・汚物処理や公衆便所の清掃などもされました。ゴミ箱の設置と片付けなど衛生面も他村に先んじていました。清潔法による大掃除が恒例化するとともに、29年(1896)には8月末に避暑外人家屋まで含めた清潔作業が実施され、警察官が出張し督励に当たりました。殺菌・消毒だけで予防注射がない当時のことでしたので、夏期に伝染病が蔓延しました。

 明治17年(1886)には浅間山麓の村々にコレラが流行し、患者や死者も続々出ました。そのため村役場は村長を責任者として撲滅をはかりました。19年夏にも新道開削と鉄道馬車により、村外からコレラがもちこまれ68名が死亡しました。この月の北佐久郡内の患者207名、死者95名でしたから、大半は東・西長倉両村でした。貿易活動中に感染し、214年一名、26年2名の警察官が殉職するほど、軽井沢のコレラは惨状をきわめました。

 当時チフスや赤痢で倒れますと、祖先に対し申し訳けないとか親不孝よばわりされますので、伝染病を隠したため一層蔓延する結果となりました。沓掛で危篤患者を戸棚に隠し、巡査が発見するとか、外国人が死亡した愛児を東京へ運ぼうとし、発覚したこともありました。草津街道が閉鎖され、吾妻郡民の生活物資が途絶えたとか、借宿で通行人の消毒や列車内立入り消毒が新聞報道されました。患者が多く、沓掛の甲乙二避病院で足りず、小学校を仮病院とするほどで、借宿・油井・発地にも隔離家屋ができました。明治29年(1896)の東長倉村の経常費は921円でしたが、このうち700円も衛生費に使い、県に400円の衛生費補助を、避病院費同様に請願をしたりしました。北里研究所で研修した岩村田の医師菊池音之助(秩父事件参謀長菊池貫平の鯛)が、沓掛に駆けつけ無報酬の徹夜治療したのもこのときでした。これが縁で30年4月に、菊池は旧軽井沢に軽井沢病院を開設しました。これ以前には、上田の医師による脚気転地療養者の医院や漢方医しか無かった地域だけに、西洋医学による病院は土地の福音となりました。また地域に衛生組合ができたのは両村とも42年で、衛生思想普及と組織化の力となりました。

 軍医総監林紀の実地踏査により、軽井沢が最良の保健地と認められ、高崎営所の脚気患者が転地療養したのは明治14年でした。佐藤万平宅を収容所に、50名ずつ交代で約200名を治療しましたが、費用不足で3年で閉鎖となりました。しかし、以後の日清・日露・北清など戦争の傷病兵療養所も開設されるなど、転地療養の適地とし軍の利用は繰り返され、今日の保健休養地のきっかけとなりました。

 また木脇医師により、バセドー病全治例が欧米医学界にまで紹介されるなど、山岳療法・空気療養地などの言葉で軽井沢が知られました。そのため27年夏の日本人転地療養者は30余名を数えました。

 火葬場設置も早く、29年には第2火葬場が計画され、発獣畜焼場も29年にできました。避暑地軽井沢にとって、公衆衛生問題はゆるがせにできず、42年には賢次郎川より引水し、水道も設置されました。浅間の噴火に悩まされる地域が、大洪水にあったのは明治40年の湯川、43年の全町大被害でした。水防・消防・警備などには、国や県の対策や援助はほとんどなく、地域の自治と相互扶助にまかされました。貧民には安米売りなどもされましたが、雀の涙に等しかったです。山林に囲まれた地域は山火事などが頻発し、村人の総出動で消火されていました。

 27年に消防組規則が公布をみましたが、村では旧来の火消組や夜番が行われていました。系統だった組織は四十二年の新軽井沢消防組55名からで、44年には沓掛消防組、45年には旧軽井沢消防組が誕生しました。大水害などを教訓とし、組織だった活動が望まれたからでした。

 一方では、44年に浅間が大爆発して、登山者に死傷者が多数でました。33年来の連続噴火もあり、44年に県会は長野測候所浅間山観測所の設置(湯の平)を可決し、危険の未然防止と山麓の人心安定を図りました。観測所は、45年より震災予防調査会の協力で観測業務を開始しました。
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