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軽井沢の歴史-30

 自治に堪えうる有力な町村の育成、これが町村制実施のための目的とされました。また「自治体の編成は、憲法を確定する前において、早く完備すべき必要欠くべからざる急務」というのが、地方自治制創設の最高顧問であったプロイセンのお雇い学者モッセの考えでした。

 明治21年(1888)4月17日に市制・町村制が公布され、22年4月1日実施ということになりました。町村制は、町村行政の「合理化」をすすめ、支配秩序を確立しょうとしました。町村合併をして成立したあらたにな町村も、当初は旧部落間の利害対立が内在し、役場・小学校の位置、町村税賦課方法などで複雑な対立をする場面もありました。また、町村内の有力者間の対立も内在していました。

 東・西長倉村の成立は、こうした背景の上に県当局の指導によって行われました。県は内務大臣の指揮により、明治21年5月3日、町村制施行調査委員を任命し準備に入りました。合併書は全県を390町村に想定しました。委員により現地調査項目が適用され、戸数・人口・反別・地価等より、合併可・不可理由がつけられました。

 発地村は、諮問案合併は区域が広すぎるとし、発地と長倉の一部油井組・塩沢組をもって一村にするほか、答議の要旨の代替案を申告しました。追分村は油井組を本村に入れるなら、鳥井原組も加えられたいと主張しました。県策定の天下り案でしたから、各村の実情や関係も知らないため、各村の意見や希望が続出しました。長倉村・峠町・軽井沢村からは、長倉村の一部鳥井原組は油井組との関係もありますから、追分村グループに加えて欲しいという要望が出されるなどしました。

 こうした答申を受け、県側は郡長意見にしたがい、当初の計画を変更しました。第2次諮問では、軽井沢・峠町および長倉村をもって一村とします。また発地・長倉村の借宿・油井・鳥井原と追分で一村とします。再諮問案を各村に知らせ意見を求めました。

 これに対して、軽井沢・峠町・追分および発地の4ヵ村は賛成を示しました。しかし長倉村は同村の成沢新田組に限り、軽井沢村部内へ分割し、長倉村と追分村の2ヵ村をもって新村を造成したい旨の答議を上申しました。しかしこの件は、追分村が同意しませんでした。その結果、各村の多数意見を採用し、再諮問案どおり変更なしで合併にふみきりました。

 こうして市町村制施行にともなう町村合併が実行されました。その結果北佐久郡内の七三町村は二八町村となり、 佐久郡も五九ヵ村が23村に半減しました。全県では八九一町村が、三九一町村に合併しましたから、ちょうど500村が消えました。

 新役場は字軽井沢から軽井沢停車場に至る直線路の駅前丁字路、その右側道路ぞいの民家に置かれました。南面して停車場があり、電信取扱所もそこにありました。130戸も新築され繁華になりつつある新軽井沢集落の中心といえる位置は、新役場の設置場所として適当と思われました。それにもかかわらず、合併した沓掛や塩沢新田など長倉側は、合併のごたごたのなかで決定した役場位置に不満がありました。

 政府は明治23年(1890)5月になりますと、府県制・郡制を公布しました。長野県は、翌年4月に郡制、7月に府県制を施行しました。23年8月には市町村名および市役所村役場の位置変更に関する県布達がだされました。従来から役場位置を不満に思っていた長倉側村会議員は、これ幸いと現役場位置を不適当とし、位置変更を議決しました。驚いたのは、字軽井沢や峠町側でした。

 長倉側頻位置不適として、中谷地は冬季寒く執務に差し支える、民家を借用しているため借家料も高くまた狭苦しくもある、村の南東すぎて不便、収税と戸数の便からもよくない、施政上も片寄りは宜しくない(請願書)というような理由を挙げていました。

 現役場位置を支持する峠と軽井沢側は、9月29日付で県知事あて請願書を提出、移転反対運動を展開しました。軽井沢・峠町・長倉の3村が合併して僅か一年6ヵ月、役場位置をめぐり分離の危機に立ちました。請願委員は佐藤万平・同杏6・同耕平・同伝四郎・佐々木量平で、旧軽井沢側一10名の署名と峠町13名の請願がされました。

(注 当時旧軽井沢という呼び名はありませんでしたが、軽井沢村では位置が現在からみると不明のため使用、以下同じ)

 現位置は停車場・郵便局・欧文和文電信取扱所もあり、交通上も村の要地と請願文に記しました。不当理由に反論し、明治22、3年の歳入まで付け、証拠としました。長倉側が地価割が多いことを主張すれば、軽井沢・峠側は営業税の多額を挙げました。戸数も全村の60パーセント余もあり議員も数多い長倉側の主張は村会で強力でした。

 明治24年(1891)3月両者の歩みよりで、離山地籍に役場位置が決まり庁舎が完成しました。峠町や旧道側の妥協が分裂の危機を救いました。当時は峠町・旧軽井沢とも、新道交通時代のなかで衰退しつつあり、停車場や避暑地で足元の固まらぬ弱気の頃でした。峠町出身の初代村長水沢瀬織は渦中にあり、まとめ役で苦心したでしょう。もつれの解決で新庁舎完成祝賀が6月28日行われますと、長野県知事も出席、祝辞をのべました。『旧北佐久郡志』は村治沿革に「市町村制実施に際し、東長倉村を組織し、符場を大字軽井沢字中谷地におく、24年3月新築成るにおよび今の地に移す」としました。さりげない一文の裏に、雨降って地かたまる一貫がありました。

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