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軽井沢の歴史-29

 明治20年代にはいりますと、大日本帝国憲法が公布され、町村制・郡制が施行されるなど、近代国家の基礎が確立しました。軽井沢では、東長倉村・西長倉村が発足しました。役場の位置などで対立しながらも、村の自治を確立しようとする努力がつづけられました。一方においては、教育や伝染病対策など、住民に密着した行政を処理するため、税負担も大きかったです。

 この時期に、鉄道も直江津〜上野間が全通し、軽井沢・沓掛駅の乗降客も次第に増加しました。軽井沢〜横川間にはアプト式機関車が導入されましたが、まだ貨物輸送などには10分対応できるものではありませんでした。信越本線の輸送改善には、その後も大きな努力がはらわれましたが、鉄道開通によって、軽井沢・沓掛両駅周辺を中心に、住民の生活も大きく変化しました。

 明治政府の殖産興業政策をうけて、鳥居義処・雨宮敬次郎らによる雲場ヶ原などの開発が行われ、牧場経営やブドウ・キャベツの栽培も本格化していきました。農業経営も、気象条件などの困難さをのりこえて、軌道にのりだしたのもこの時期でした。

 ショー、ディクソンが明治19年に軽井沢を訪れ、避暑地として紹介し、別荘を建設したことは、軽井沢の歴史にとって、非常に大きな出来事でした。その後、外国人の別荘も相ついで建設され、外国人避暑客は年々増加していきました。外国人たちは、テニスや野球などを楽しみ、運動の会も組織し、教会も建設しました。軽井沢では、避暑客の増加とともに、万平ホテル・三笠ホテルなどのホテルが建設され、商店も増加し、活気がみなぎるようになりました。また、日本人の別荘や大学の夏期寮なども建設され、一大避暑地としての基礎が築きあげられました。
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