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軽井沢の歴史-28

 明治政府・長野県は、管下の民情を知るために、各種の調査の報告を地域から提出させています。もっとも完備しているのが、いわゆる町村誌です。それは、大蔵省からの別途予算にもとづき、長野県では史誌編輯掛を置いて編集しました。

 峠町は明治14年(1881)8月4旦戸長水沢瀬織から、軽井沢村は同年戸長佐藤耕平から、長倉村は同年7月戸長土屋荘蔵らから、追分駅は用懸土屋市平らから、発地相は同年7月30日戸長佐藤柳助らから、それぞれ長野県に提出しました。調査項目は、彊域・管轄沿革・地勢・地味・税地・字地・戸数・人員・山・原野・川・社・寺・学校・古跡・名勝・物産・民業・風俗など広汎にわたっています。

 長倉村・追分駅は浅間嶽について記述しています。「高凡六百丈余(一、820メートル)、周囲凡10里余(39キロメートル)、全国第一の噴火山にして、本村(長倉村)中央沓掛駅より西北三里にあり。嶺上より3分し、東一面南に渡り、長倉村に属し、西南隅は追分、塩野の両村に分属します。北は嶺上より少く低下する所より界し、上野国吾妻郡大笹、狩宿新田等に属します。山脈、東長倉山の御巣鷹山に連環し、塊鍵起伏して碓氷峠を経、上・武・甲の諸山に捗ります。樹木生ぜず」(長倉村)とあります。

 浅間山は、本州を太平洋斜面と日本海斜面とに2分する分水嶺の一部を成しています。谷川岳・四阿山・浅間山・荒船山と続く、約50キロメートルの大分水嶺です。「山脈、東は塊艇連互して、碓氷嶺に連り、さらに南に走りて、上・武・甲三州の諸山に捗り、西は剣ノ蜂に跨ります。樹木生ぜず」(追分村)と記述されています。

 登路は、「本村(長倉村)より正北、吾妻道の鼻田坂を登り、小浅間山の麓より左折し上ります。登肇凡そ一里10町(5キロメートル)、易にして達し。一は追分村、字神ノ池を経て上ります。直行ほとんど一里(3・9キロメートル)、険にして近し」(長倉村)、「登路一条、駅(追分)の東端より左折し、浅間造拝所左傍より上ります。高さ3里峻路なり」(追分村)とあります。

 火口は、「頂上に一大凹所ありて、常に雲個を噴出し、暗黒千伎其深さを知るに由なし。孔穴の周囲、大凡20町許(2、200メートル)たり」と記されています。

 軽井沢は浅間山麓の高原です。追分村は、「山麓平原、4辺悉く広漠たる原野にして、本村の家屋其中央に位し」といっています。軽井沢村は「地勢高隆、設を借らず」、発地相は浅間山の噴火により、年間浅間山、大焼の際、長倉村は、「四隣皆原野なり、いわゆる原野中綾かに耕宅地を存するもの」と叙しています。盛冬芭寒、梅桜桃李4月の末より万花同時に開く」と記し、峠町は「盛夏と錐も蚊帳の「いわゆる浅間岳の山風ありて、酷寒なり」と、それぞれ高原の地勢・気候を記述しています。
 土は「色黒く、灰土にして、其質悪し、蕎麦、稗、大豆、馬鈴薯、大根等に適します。天明砂石撒布し、閑地愈々瘡薄を加ふ」(軽井沢村)、「浅間の焼土にして、軽浮灰のごとく、其質悪しく」(追分駅)の地味です。
 以上いずれも、のちには避暑地化に適合する条件となったのです。「気候四季常に冷なり」(追分駅)であったからです。峠町は熊野皇大神社(郷社)の門前で、「上野国碓氷郡峠町と国界、標柱、社地の中央を以て境し、同村に隣接」していて、眺望が開けています。「日本武尊東望詠嘆跡」は、「地位特に高く、総房上武の数州指点の間にあり」、日本武尊神話の地とされていました。城山は「信、上、両国一望の地」で、古来から戦略上の要害の地でした。18戸のうち、10戸が商業であり、「山頂に熊野神社あり、中山道其中央を貫通す」という町でした。

 軽井沢村は10七戸のうち宿営業が12戸でした。人力車7輌、電信のための電柱19本が、文明開化の時代の色彩を点じていました。一方で「農間珠、薪、炭焼をなす」71戸があり、山村の要素も有していました。雲場ヶ原は反別105町7反5畝(105ヘクタール)、「本村地元にして外20ニケ村入会抹刈場」でした。

 長倉村の沓掛駅は、「国、県、里道四隣に貫通するを以て、運輸最も便利」であり、温泉が流れ込む湯川は「水勢急にして清淡」、「水質温気あるを以て、厳寒もさらに氷凍を見ず」と記されています。荷鞍約300個、馬沓約4万3、800足の製造物と農間の駄賃稼に、街道の村の生活が示されていました。

 追分村も一等の国道(中山道・北国往還)沿いで、「家屋中山道に連櫓」していました。110戸のうち、旅舎営業36戸、人力車70柄、馬車12柄などの数字に村柄が現れていました。「家屋高山獄の麓に居るを以て、田畑些く、農務に従事するに由なし。故を以て単に、逆旅の営業に狙勉します。柏任侠の風あり」と、街道筋の気風も報告されています。

 発地相は「渾て山間僻阪の地に位するを以て、人情は淳朴」の村でした。26戸のうち、農桑27戸、賃馬稼55戸で、馬87頭を飼育していました。物産のなかに、鹿5頭と雉子350羽があり、「自村の外隣村へ輸出」もしていました。

 これらの町村誌には、新時代を反映した合理主義が見られます。寒暖計による肇氏での気温測定がそれで、軽井沢村では「極暑82度、極寒13度に及ぶ」(摂氏で28度〜零下11度)とあります。峠町で、碓氷山の「山名ウスヒ」の語源各種をあげてのち、「要するに皆附会に過ぎず」と述べていることにもそれが示されています。

 町村誌は国・県行政の必要から編集されたものでしたが、地域性の認識の契機となったのでした。これが、近現代最初の軽井沢地域誌の編述であり、旧幕時代の村方明細帳の類からは、内容が一新されていたのでした。
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