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軽井沢の歴史-27

  明治政府は、明治5年(1872)8月3日学制を公布し、全国にくまなく小学校を開設するように促した(寺子屋は廃止されることになった)。

 軽井沢は、第6大学区第17番中学区(本部岩村田)に属しました。6年8〜9月に、第32番小学区の分里学校(追分宿・借宿村)、第48番又新学校(沓掛村・塩沢新田)、第57番発仁学校(発地村・油井村・馬取萱村・茂沢村)の3校が「仮開校」しました。地域の文明開化の中核の役割を期待され、地名とからませた「発仁」の校名は儒教主義を、後述の「振起」は5箇条の誓文の開明主義によっていました。

 学校の維持管理はすべて地域の負担で重く、分里学校は本陣の離れ屋、発仁学校は密蔵院内、7年開設の第61番振起学校(軽井沢駅、峠町を含む)は佐藤13郎宅を使用したあと神宮寺内と、既成の建物を利用して「お寺学校」の状態であったといいます。生徒は貴重な家族労働力であり、授業料の負担もあり、6年の迫分宿の場合「就学」が男34人、女15人、「不学」が男7人、女15人であった(3校の合計は、就学男133人、女25人、不学男49人、女20人)。ことに女子の就学が低かったです。

 小学校には、寺子屋の風習が残り伝えられました。小学校入学のとき赤飯などを持参するのが昭和初期まで続きましたが、これは寺子屋の入門(初登山)の慣習であり、また金銭をそのとき寄付するのも、寺子屋入門時の束情(学費)に相当しました。子供たちが、正月の内の1日を書初め、天神様参拝、会食で過ごす天神講も、寺子屋時代の続きの行事です。

 明治10年(1877)は西南戦争で景気のよい年ではありましたが、軽井沢の小学校教育は、統計の上で衰退しました。前々年に比べて、教員・男女生徒ともに減少しています。

 学制では、満6歳で入学、6ヵ月ごとの進級試験、下等小学・上等小学校各8級4年制を原則としていました。西南戦争の年の10年12月の調査では、軽井沢の就学の割合は48・6パーセントとなっていました。しかし、生徒188のうち70人が下等小学校第8級であって、級が進むにっれ中途退学が急激に増え、生徒数が急減しています。小学校に通学することが、難事であったのです。振起学校の学区は118戸、504人(軽井沢全体で622戸、2895人)、学校経費113円、住民一戸あたり0・96円、別に経費不足9円があり、小学校は地域にとって少なからぬ経済的負担でした。

 学制は、教育令(12年9月)、改正教育令(13年12月)に変わりましたが、松方デフレによる不況の最中にあった17年のとき、軽井沢4校はいずれも借家であった(全県八四三校のうち借家は130校)。教場坪数は、日々出席生徒平均数一人あたり0・九八坪にすぎなかった(在籍生徒男187人、女85人、計272人、その一人あたり0・5入坪)。しかも女子の在籍・就学忌避が多かったですので、もしも学齢の者が全部出席すれば、立錐の余地もない状況になってしまうのでした。

 2校には訓導がおらず、いずれにしても授業生・助手に頼って授業が維持されていました。当時の課程は、初等科だけの3年、中等科までの6年、高等科まで8年の3種に分かれましたが、追分・長倉両校が8年制、軽井沢・発地両校が6年制でした。18年には、初等科生徒が4校233人、中等科生徒は実際は4校すべてにいて39人でした。女子の中途退学は、依然として多かったです。

 明治18年(1885)には、追分村・峠町・草越村・軽井沢村・長倉村・発地相をあわせて、新しく北佐久郡の第4学区に指定されました。834戸、地価5万円、授業料納入254人の学区であって、長倉村、追分村、発地相に初等科だけの3校(長倉村に本校)、軽井沢村、草越村、長倉村の内鳥井原、発地相の内馬取萱に計4校の派出所が置かれました。広い学区に7校もの小学校が、分散して存在していました。

 19年4月に小学校令が公布されました。軽井沢には尋常小学校(4年制)も置かれず、3年制で授業は毎日3時間(「半日学校」)の簡易科で、長倉・追分・発地・軽井沢・草越・鳥井原・馬取萱・借宿の7校が設けられました。軽井沢は街道が衰微して疲弊しきっていました。

「住民は離散し、軒並み空き家だらけになって家の手入れも出来ず、屋根にのせてある石が時折り、どかんどかんと落下し、殊に真夜中など無気味な響きを伴ったといいます。かつての江戸往還の中山道の宿場のメインストリートがベンペン草が繁茂して、子供の恰好の鬼ゴッコの遊び場、どの家も新らしい白い障子紙が貼れず、燃料は松まきのため家の中は煤ぶれ、毎年一回障子紙の貼りかえも出来ず、なかには古文書を探し出して貼ったり新聞紙を代用している貧困さ、学校の教師の俸給が払いきれず、正規の先生が変わって行く、仲間の者の教科書を回し読みしました。現在の旧軽井沢の繁栄と比べ想像も出来ない時代でした。」

。避暑地に開発される前の軽井沢でした。
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