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軽井沢の歴史-26 外国人の浅間山登山

 明治に入りますと、・軽井沢に頻繁に外国人が往来するようになりました。幕末から日本は、安政元年(一八五四)の日米和親条約や同5年の日米修好通商条約などの不平等条約の下にありましたが、外国人は居留地の横浜などから自由には旅行できず、居留地外の居住(内地雑居)は認められていませんでした。しかし、これらは外国人によって次第に無視されていきました。 明治3年(1870)の追分宿脇本陣油屋の検名簿(宿帳)には、3月14日宿泊の米国人ホローヲンから始まって、英国・伊国公使らの往来などが記録されている(島崎清 軽井沢よもやま町公民館だより)。5月14日〜16日滞在の英国公使ハリー・パークス一行は、日光・絹業地帯の視察の旅でした。横浜で隔週に発行されていた絵入り新聞『ザ・ファー・イースト』には、パークス夫人が「今や、外国婦人の中で休火山である富士山の頂上をきわめたただ一人の人であるばかりでなく、浅間山の活動中の噴火口を見下した人である」という記事が掲載された(金井固訳 みかどの都)。

 浅間山(標高2、560メートル)は、コニーデ型の三重式火山でしかも活火山ですので、欧米人の関心を集めました。浅間山は古来山体が「浅間大神」の神体として信仰されていたので日本人の登山は行われず、近代登山は外国人によって開かれました。

 浅間山の学術登山は、英国人ジョン・ミルンによって行われました。ミルンは、お雇い外国人(東京の工部大学校教授)として日本に近代地震学を移植した人です。ミルンはまず10年に浅間山に登頂しました。「噴火口は側面が底なしの穴のように見えました。そしてゴーゴー鳴りながら硫黄のガスを大量に噴きだしていた」と記しています。ミルンは、19年に2度目の浅間山登山をしました。10月2日午前4時半、沓掛を友人3人、強力5人の一行で出発、午前11時に頂上に着きました。

 噴火口の測定が目的でしたが、「第一に、水蒸気の雲が測定基地間の視界をさえぎっていますし、その雲のために遠くの噴火口がのぞけませんでした。第2に、噴火口自体シューシュー、ブクブクと音をたてていたため、音による通信は近くでしかできませんでした。第3に、噴火口のゴツゴツした端からクロス・ロープをはずすのがむずかしかったです。噴火口を登るにもかなり危険だった」。これは、活火山の火口の科学的調査の最初でした。

 ミルンは、測定装置を用意しました。これを使用した三種の試みのうち2回目に、亜鉛・アンチモニー・木・ゴムなどを付けた「自動実験室」が噴火口の側壁に達し、封蝋は軟かくなり、青いリトマス紙は赤変し(酸性)、硫化で鉛はかなり黒ずんでいました。

「頂上を離れる前に、幸運にも噴火口の底の片側を見ることができました。つきだしている岩に慎重にはいあがっていき、それから、腹這いになりながら、岩のはしに手をかけてのぞきました。目の前の絶壁は、厚い白い岩の水平層の帯からできているようでした。穴そのものの底は白く、丸石と破片でおおわれていました。穴の側面の多くの場所から蒸気がシューシューと噴き出していた」とミルンは記しています。

 ミルンは、噴火口の深さを1500〜2000フィートと推定しました。ミルンは、「この国でもっとも活動的な火山の一つから出るガスの性質をいくらか知り、見る人のほとんどいない火山活動の景観を楽しんだだけです。よそものがはじめて、底なしに見える穴の燃えさかったゴツゴツした側面が、もうもうと水蒸気をあげて、ものすごい音をたてているのを見たら、けっして忘れられない印象を受けるものだ」と書いています。英国人のミルンには、活火山自体が珍しかったのです。

 日本アルプスに近代登山をもたらした英国人ウォルター・ウェストンが、日本の中部山岳地帯に最初に入ったのが、明治24年(1891)7月で、まず浅間山に登頂しています。鉄道馬車で軽井沢に来て萬松軒に宿泊し、「洋食」を提供されました。雨であったので翌朝午前9時、「日本の活火山のなかの一番みごとな火山」、「鈍い、赤い条の付いた山の姿は、ただ一つの円錐形山頂」の浅間山頂へ出発しました。ウェストンは、浅間山頂を8、282フィート(2526メートル)、軽井沢の標高を3000フィート(915メートル)としています。

 ウェストンと友人ベルチャー(山陽鉄道会社顧問技師)は、案内人一人とともに登りました。主蜂と小浅間の間のコル(鞍部)を通りました。約6000フィートで森林帯から離れ、山頂の火山灰などの所へ進みました。山頂の傾斜は、約35度と急でした。一行は、「一時頃雄大な噴火口のはしに着きました。この内壁は蜂の巣のようになっていて、そこから硫黄を含む水蒸気のおびただしい渦巻が、恐ろしい不気味さであるいは起りあるいは消える響きと一緒に、捲き上がっています。……噴火口の周囲は一、300ヤード(400メートル)ほどで、その底知れない深さは、それよりももっと深いだろうと思われます。夜この噴火山にのぼり、下に火の燃えている洞穴のような深い淵をのぞき込んだ人は圭その後私もそうしたが雪この世のものとも思われないその光景を、生涯忘れないだろうと思う」のでした。

 頂上には雲が立ちこめていましたが、「遠か南のほうに富士の紫の蜂が、一瞬の間、天地の間にかかったように現われました。また、西のほうの急に変れた霧の裂け目からは、日本アルプスの紫の連峰が、棲りしく胱気に浮び上がって来た」(岡村精一訳 日本アルプス)とウェストンが、のちに広く世界に紹介したのは日本アルプスを、最初に眺望したときのことでした。

 信州へ入って最初の高山、旧街道の宿場から登れる魅力の活火山。学術や探検の興味もひいて、浅間山の近代登山が開幕されたのでした。
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