■軽井沢の歴史01  02  03
■軽井沢の歴史04  05  06
■軽井沢の歴史07  08  09
■軽井沢の歴史10  11  12
■軽井沢の歴史13  14  15
■軽井沢の歴史16  17  18
■軽井沢の歴史19  20  21

■軽井沢の歴史22
■軽井沢の歴史23
■軽井沢の歴史24
■軽井沢の歴史25
■軽井沢の歴史26
■軽井沢の歴史27
■軽井沢の歴史28
■軽井沢の歴史29
■軽井沢の歴史30
■軽井沢の歴史31
■軽井沢の歴史32
■軽井沢の歴史33
■軽井沢の歴史34
■軽井沢の歴史35
■軽井沢の歴史36
■軽井沢の歴史37
■軽井沢の歴史38
■軽井沢の歴史39
■軽井沢の歴史40

軽井沢の歴史-25

■追分中心の郵便

 飛脚が街道を走り回って配達していた時代、通信機関に托して文書を届けるなどは、村の人には無縁にひとしいことでした。連絡も時と場に応じ、言い伝え・言いつぎ・触れ・つげ・回状などでことたりました。
 近代通信制度の取り入れは、明治4年(1871)の郵便規則制度で始まりました。5年2月には規則が増補され、7月に全国に郵便が実施されて、中山道の伝馬制度は廃止されました。
 5年7月1日、追分に郵便役所が置かれ、局長には土屋13がなりました。同時開設は小諸・岩村田の2ヶ所でした。9月になると軽井沢・沓掛にも郵便取扱所がおかれました。以上の郵便扱い場所は3ヶ所とも旧本陣があてられていました。県内にできた50ヶ所は中山道・北国道ほか主要道の宿場町だけで、郵便は封書に限られました。逓送に郵便御用取扱所という私設会社を立て、輸送にあたる計画もさわた。その一つが面替村(現御代田町)の茂木半五郎によるもので、群馬の本庄や伊那県の者と共願でした。追分を起点に新潟や金沢までの北越を範囲にし、書状・行嚢など継立てをする申請であった(県史資料 交通通信)。ほかより早く等級までつけて追分郵便役所を定めたこと、私設継立てが追分を基点としたこと、駅逓寮の触れ書きも追分から始まり諏訪地方まで継送りされたこと、以上のようなことからも、追分は新時代通信の重要地点となりました。
 明治6年になると端雪が発行され、制度の整備とともに庶民にも郵便が普及しました。10年岩村田に4等郵便局ができ、追分・小諸と肩を並べましたが、これは八卑に小諸・岩村田の2ヶ所に資金三百円の郵便為替扱いが始まったためでもありました。軽井沢〜長野間の馬車による請負逓送が始まり、一ヵ月90円の逓送費でした。郵便脚夫の発病や行嚢の紛失など、管理面の心配もありました。11年7月、金沢発東京行き逓送物が現金輸送と間違われたために、輸送中の逓送脚夫2名が、追分の鰍沢で殺害される事件もありました。
 9年の長倉村の誕生や12年の南北両郡分割の前夜、局も移り変わり明治8年追分が4等郵便局、軽井沢と沓掛が5等郵便局となりました。新国道が開通しますと、旧道はますますさびれて17年8月15日には軽井沢局が廃止された(21年12月に再置)。その後も統廃合が続き18年11月30日限りで、県内の96局が廃止されました。そして翌日から37の郵便受取所が新設されました。このとき沓掛局は、受取所の一つとなりました。その後三年間は追分一局が、現在の軽井沢から御代田そして平原までの広範囲を受持ちました。信州の東玄関、国道5号と7号の分岐点局というだけでなく、長野駅逓局の駅逓分局という重要局となり通信・業務の管理も分担しました。そのため19年5月には、佐久地域の岩村田・小諸・野沢など9局とともに3等郵便局に昇格しました。21年(1888)12月、軽井沢郵便局が3等郵便局として再置されました。

■電信の設置

 御巡幸に先だち緊急事業で、電信線が架設されました。10年9月、高崎〜上田間電信路の測量のため、工部局員は碓氷峠のけわしい斜面を登りました。架設設計技師は御雇いイギリス人で、工部省役人がつきしたがって中山道ぞいに実測杭を打ち込んでいきました。電線路が決まりますと、上田や上畑でも公用土地買上げ規則が適用されました。障害となる樹木は手加減せず伐られ、ひさしや塀・垣などを切りつめる場合すらありました。住民は反対や変更も願えず、役人の説諭で敷設されました。科学知識が乏しく、文明から遅れた地域の人々には、英人の指揮の架設や電気による通信は、舶来の魔法のように考えられました。「僻地ノ頑民ハ電信ノ何物クルヲ知ラズ唯其新奇二驚キ切子丹ノ邪法ナリト唱へ往々線路ヲ妨ゲ柱線ヲ毀チシことアリシヵ漸々之ヵ用ヲ知り随テ英数ヲ減ゼリ。而シテ我町ヲ通ズル電信線、東京ヨリ長野2至り又新潟県下2云々」(小諸沿革誌)と識者は記しました。17番銅線で通信が瞬時にできることは、非常な驚きでした。直接地域と民衆に利益をもたらさないように思える反感もあり、架線への投石や電柱への落書きや悪ふざけなどもあったりしました。
 明治11年3月には長野にも電信分局設置が認められ、最初に予定の上田とともに県内に2つの電信分局が誕生しました。商都小諸も「当小諸町之義ハ北国街道の吉日地ニシテ人家桐密特二倍州咽喉ノ要地」であり、商業も繁盛なのに電報が必要になっても使えません。そのため上田・長野・高崎などに商売を独占され、損害ばかりか気力まで失い、衰額の気配さえあるから分局設置を早くと請願しました。13年2月には工部卿宛に県令から上申されました。小諸町有志惣代の運動が効力を奏し、同年11月には2等電信分局が設置されました。
 軽井沢地域の電信線は、峠町から中山道ぞいに布設されました。25間に一本の割合で地元木材で電信柱が立ち、文明の象徴のような電線2本が張られました。11年に峠町より信州に延びた線は、まず野尻駅(現信濃町)まで27里が完成し、さらに直江津から新潟まで延長されました。北越への交通・通信は、中山道浅間山麓が関東と結ぶ表通りでした。北佐久郡内では、小諸を皮きりに電信線がしかれましたが、郡役所の置かれた岩村田でさえ、設置は22年1月のことでした。
 軽井沢に電信取扱所が置かれ、公衆電報の取り扱いを開始したのは23年9月8日でした。その扱いも、鉄道所属の電信線を利用したもので、県下初の鉄道電信の使用となりました。これは21年に直江津嫁が軽井沢まで開通し、日本海側との物資輸送上の結節点となったこと、馬車鉄道の乗り継ぎ地点であったことなどにありました。外国人の軽井沢入りもあってか、欧文電信扱い所とわざわざ善ばれるほど珍しい施設でした。

■警察の整備

 新時代に即応して警察制度の整備もされていきました。軽井沢は碓氷峠はかりでなく鼻曲・入山・和美などの峠や、中山・北国・女・草津など街道の集中する要地でした。幕末から維新の動乱期、いくつかの事件が集中して、峠と街道の守りと安全が常に問題にされました。
 そのため峠の守りと国道の治安は、秩序維持上重要な事項でした。明治6年(1873)9月、岩村田警察出張所ができますと、第一区屯所が追分の土屋亮一宅に置かれ避卒五名が駐在しました。翌年には追分屯所は巡査北第一屯所となり、国道と佐久郡北部の治安維持にあたりました。道路交通以外では外部と連絡できなかった時代でしたので、関東に向かう移出物資や入信する外人貿易商の買い付けや、旅行の安全確保などの役割も増加していました。
 明治11年の北陸東海への巡幸は、維新以来の大盛ことでした。追分が、信州人り第1日(9月6日)の第一夜の担当区だけに、警護警戒は事前から綿密に行われました。地理に通じた地元の警察の活動は、沿道の観衆整理・休息所・行在所と経営責任も重大でした。御巡幸2ヵ月前に追分で郵便物逓送夫2名が殺害された事件もあり、またご出発一週間前には、近衛兵の反乱「竹橋騒動」もありました。それだけに担当者の安全確保の心労は非常なものがありました。
 16年には碓氷新道の工事が始まり、各地から人夫が入り、飯場が建ちならび、民宿者も大勢でました。人口が急増したなかで、街道の人気も荒み、博打・喧嘩・病気等々目がはなせない状況が新道完成まで続きました。また17年5月には群馬事件、9月加波山事件と自由党員の蜂起が続き、10月には秩父事件が発生し軍隊が出動しました。関東に接する峠や道の安全が再び問題化しました。だが地域は平穏で「8日坂本から平隊百人ばかり通行、所々に百姓相動初り・侯由武州八幡山辺愛知県辺南佐久辺も有之由、新道も平隊登侯由也」と武助日記が伝えるだけで終わっていました。しかし一郡一警察となった19年末に、軽井沢巡査派出所が設置されますと、県境の碓氷峠道に巡査3名が警備駐在しました。また平常の管轄地域パトロールは、一ヵ月に90里の巡回と定められていましたから、山坂の多い浅間板腰の地域巡視は過重な仕事でした。明治21年6月には、郷村受持区制度による巡査在勤所が発足しました。翌年追分村が西長倉村となりますと、追分分署も西長倉分署と改称しました。警察機構も整備され、明治22年6月には、巡査駐在所が生まれ第2号西長倉村、第4号東長倉の峠と軽井沢、第3号それ以外の東長倉村と受持区が分轄されました。
 明治前期の岩村田警察署は、追分・小諸・望月の3分著しかありませんでした。10名も署員を配置した追分分署は、国道の安全上、警備上の重要地点でした。交通機関は馬車と鉄道馬車の全盛から直江津線の開通へと進みました。軽井沢駅前は、上り下りの人々や待合客で雑踏しました。関東からの玄関口は、警察をわずらわす問題が交通とともに日夜を問わず発生しました。
北軽井沢物語軽井沢観光ガイド軽井沢グルメガイド