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軽井沢の歴史-24 中山道鉄道の計画

 新政府に鉄道建設を協力に働きかけたのはイギリスでした。明治2年(1869)11月10日の鉄道建設決定も、イギリス資金を得てというものでした。敷地基本方針は、まず東京と京都を結ぶ鉄道を幹線とします。また幹線とならび東京〜横浜間、茸琶湖岸〜敦賀間、京都〜神戸間の支線も計画されました。

 明治3年6月、政府は東海道筋の調査をさせました。土木司員佐藤与之助・小野友五郎は、翌年1月調査結果を「東海道筋鉄道巡覧書」にまとめ提出しました。同文書は「東京より神戸表、蒸気通船多分往返自在に相成、且東海道ハ運送便利之地多く候間、鉄道御取開成侯上、一時運送ハ海陸不絶井び行れ可申哉難窺知候得共、当時商売之形成ヲ以相考侯へぼ、極々高価或至急の品物之外ハ、運賃下直之方2多分積送り可申、且又東海道鉄道築造御入費ハ莫大之儀、努以東京より木曽中山道鉄道御取建相成候方御専要奉存候。(中略)木曽中山之儀は運送不便之地多く侯間、所々より枝道相付侯へぼ、産物運送山国開化之一端二可相成、(下略)」(碓氷線物語 八木富雄)と、東海道筋の調査をしながら中山道地域の開発につながる、木曽中山道鉄道路線を取り上げました。4年1月の巡覧書以来、軽井沢地域を経由する路線が登場していました。

 先の佐藤・小野案をうけて政府は、4年3月小野友五郎と山下省三らに命じ、中山道を本格的に調査報告させました。だが路線決定に結びつく決め手が得られませんでした。東海道・中山道のいずれをとるか、決定に至らず再三の調査がされました。7年には建設の可能性を求めて、イギリス人お雇い建築師長リチャード・ビヵース・ボイルが実地踏査しました。5月に神戸を出発し京を経て中山道を進み、高崎に至りました。筑摩県は「工部省鉄道寮雇英人ゴールウェー井ギンドルクロード当22日東京出発、中山道鉄道線ため取調巡回侯旨同省ヨリたち有之侯間、前岡人参着侯ハバ不都合無之様可取計事」と布達しました。はっきり中山道鉄道と記された文書に、中山道沿道の人々は驚きと期待で、岡蒸気の話題を受け止めたと思えます。幹線鉄道の支線新橋〜横浜間が開通したのは、このニュースの前年9月12日のことでした。
 ボイルの第2回調査は明治8年に行われ、前回の逆コースで横浜を出発し中山道を辿り、神戸まで念が入れられました。その結果、このルートが建設可能で経済的にも有利という結論に達しました。9年9月、彼が雇英人支配人W・ウォルター・カーギルに提出した報告書は、横川から田中に至る区間は、入山峠越えルートでした。横川〜久保〜境新田〜茂沢〜平尾というコースを想定し、久保と境新田との間を1000分の50勾配で上ることとしました。関西では同じ月に京都〜大阪間が開通していました。
 ボイル報告の翌月、政府の政策に反対し神風連の乱・秋月の乱・萩の乱と、西南日本の内乱は一斉蜂起の如く暴発しました。その翌年の10年2月にもまた反政府暴動、西南戦争が人々を驚かせました。対策に苦しみ軍事費の投入にあえぐ当局には、財政難で幹線国有方針と中山道鉄道敷設に踏み切れませんでした。
 そうした中で14年11月には、日本最初の私設鉄道の 「日本鉄道会社」が創立しました。15年には同社は東北・高崎の2線に着工し、16年7月28日には、上野〜熊谷間を仮開業しました。もたつく政府を尻目に24年には、青森までを開通させ、営業成績も良好という経営でした。

2 鉄道敷設の決定

 明治16年(1883)10月23日、人々は中山道の新道工事が進行するなかで、幹線鉄道として中山道鉄道決定を知りました。11月には布設予備調査のため鉄道省の官員が県内に派遣されました。路線は現在の北陸新幹線予定ルートに似ていました。入山峠越えで信州に入り、軽井沢地籍は油井・茂沢と南部を通行し、平尾・岩村田を通過しました。塩名田で右折し、千曲川右岸を下り、田中と本海野の中間で新潟に至る支線を分岐しました。本線は千曲川を渡り、鹿教湯から保福寺を越え、松本に至り、木曽谷を下って中津川に至る路線計画でした。軽井沢の人々や通路にあたる地域の人々は、どう考えどう受入れようとしていたでしょうか。この年5月竣工した碓氷新道工事に、耳目を奪われたか佐久地域の反応はとぼしかったです。ところが敏感に反応し、鉄道誘致運働を展開した地域もありました。
 明治17年2月、下伊那郡有志は鉄道問題を
「著ルシキ便益ヲ与フルノ正二遠キニ非サルヲ見ル今日2遭遇シ勧声朝野2項充スルヤ必セリ、我上・信・美3ケ国ノ如キハ、直接二其幸福ヲ被フルノ日、屈指ノ間ニシテ又甚夕近キニアルヘシ、鳴呼偉ナル哉国家ノ美挙」と大喜びの状況を具申書に記し、さらに木曽谷と伊那路の特質を対比し、伊那谷通過を願う誘致意見を述べました。並み並みならぬ期待を寄せる人々は、17年5月にも「人夫5万人ヲ献納以テ工事ノいくぶんヲ負担仕、乃チ其恩沢ノ幾万分ノ12奉報度」(村上明彦家文書)と、上伊那人民の熱意と願望を上願しました。
一方政府側は、中山道鉄道公債発行を17年1月告示しました。額面百円の証書2万枚を7分利付で登場させ、資金調達を図り鉄道建設費にあてる目標でした。公債発行や政府支出の決った準備金50万円により、中山道鉄道は大きく実現に一歩踏みだしました。
10年も停滞を続けた鉄道建設が、松方デフレの不況下で急に決定したの踵、軍事関係者のテコ入れでした。軍隊輸送の困難さを、陸軍は西南戦役当時の貧弱な陸運と水運機能の不備で思い知らされました。また朝鮮では反日の軍隊反乱や日本排撃論も活発化していました。内外の危機に臨機応変に対処するには、大量輸送のできる鉄道が重要で、その強化は軍にとって切迫した問題でした。ドイツ陸軍などをまね、軍備強化を進めた日本にとって、ヨーロッパ大陸の列車輸送は魅力的でした。このことを士族反乱と農民一揆鎮圧の旗頭、山県有朋内務卿が見逃すはずはありませんでした。16年に高崎〜大垣間の鉄道建設建議書が提出されました。今まで富国強兵よりも、殖産興業の面から進めていた交通運輸力強化は、ここで軍事的色彩を強めて推進されることになりました。このころ私鉄日本鉄道は、16年10月には熊谷〜本庄間を開通させ、年末には新町まで路線を延長させていました。
 中山道鉄道は、東西両端から線路測量を進め、終わり次第着工という手順で、16年(1883)11月には高崎〜上田間の測量を開始しました。そして17年10月には、高崎〜横川間を工事着手しました。同じ頃、裏日本の直江津側からも線路測量にはいっていました。19年1月には上田〜追分間の路線測量が通達され、立木伐採や宅地内立入りもあると告げられました。これに対して「路線測量が開始されますや、当初の御代田駅設置の予定地であった小田井部落付近の地元民、特に地主たちの強硬な反対にあい、予定地を現在地に計画変更の止むなきに至った」(御代田村誌現代篇)と測量反対の事情について善かれています。反対理由は農地が潰れる、鉄道沿線は稲が稔らない、汽笛が人の命を縮める、馬方仕事がなくなる等々でした。追分宿も鉄道通過に反対しました。その理由は上記と同じようなものであったと思えます。
中山道鉄道の資材輸送線として進められた工事は、直江津側から順調に進みました。ところが碓氷峠と木曽谷は、実測段階で動きがとれなくなりました。難工事が心配され、莫大な建設費となる上に完成ものび、開業後の列車運行さえ問題視されました。鉄道院はひそかに東海道線を調査し、両線建設費を比較するなど切羽詰まった動きさえ示しました。両者の比較では東海道線が一マイル当たり4万5、000円に対し、中山道線は8万4、000円と倍近い計算が出ました。営業収支でも2・5倍近い差も予想されました。その上に運転時間でも、東海道線13時間、中山道線は19時間と不利な結果がでました。
 19年7月13日の閣議は、東海道線採用意見をあっさり可決し、幹線鉄道を東海道と決めました。19年7月、
内閣総理大臣伊藤博文は「中山道工事既1こ削後数理ノ間竣功ヲ告ケ、漸ク其中部2者手セントスルニ当たり、之ヵ実測ヲ経ルニ其地形タル峻峻崎嘔ニシテ、之ヲ東海道ノ平夷2比スレハ、ただこ迂路ヲ取ルノ不利アルノミナラス、其工費ノ如キモ自ラ多キヲ加へ、随テ唆功ノ期亦太夕遅速ノ差アルヲ発見シタル旨、別紙甲・乙号ノ通、鉄道局長官ヨリ具状シタルヲ以テ、今般中山道鉄道敷設ヲ廃シ更二工事ヲ東海2起スニ決定ス」(下略)(閣令第24号)と告げました。現今の政界なら鉄道局長官どころか、担当大臣さえ辞任を求められるほどの大事件となることでした。国会もなく地元代表議員もない時代でしたから、鉄道院の不見識や政府の態度も問題にされたり非難されることはありませんでした。11月には東海道線の工事が始まり、21年12月の直江津線の軽井沢までの開通に遅れること8ヵ月で、東海道線は全線開通してしまいました。東海道実の問題点であった「東海道線が沿岸を通るため、軍艦から攻撃され易い」とか、グラント前米国大統領の「海岸は舟運の便あり。されば鉄道は国の脊髄たる中央に敷設する方が宜しからん」(日本鉄道史)という意見も、井上鉄道局長の箱根天険、大井・天竜川大河説もまったく言及されず、碓氷峠の急勾配や膨張する経費見積りのために、中山道実は撤回されたのでした。

3 直江津線の全通

 日本海側の物産を、最短距離、最低時間で大消費地東京に運ぶこと甚、新潟県側の実業家たちの悲願でした。明治14年10月、信越鉄道を敷設し、本州横断の鉄路を、という運動が高田町室孝治郎・長野中牛馬会社の中沢与左衛門らにより始まりました。まだ政府は国の南北をどう結ぶかに苦心していた段階でした。15年9月に創立総会が開催され、この運動は盛り上がりました。17年1月の新潟・長野両県と東京府の発起人は520名にもたっした (東京経済誌 第209号記事)。4月26日の発起人総代会は、長野・新潟両県令に信越鉄道会社設立請願を行いました。出資金も90余万円となりました。工部卿は上田〜直江津間路線は、中山道幹線と結ぶ重要鉄道と認め、官設を上申しました。日本最初の本州横断線として、7月に官設決定が太政大臣から長野・新潟両県に指令されました。
 こうした経過で、中山道鉄道と接続し、北陸信越地方の物資を関東にという私鉄認可願は却下されました。政府が日本海側から中山道鉄道の資材を運搬すると決定したのは10人年(1885)3月28日でした。直江津〜軽井沢間の軌道ほか、建設資材はほとんどが海上輸送され、直江津から工事列車で現場に送られました。この計画には井上鉄道局長の上申や、工部卿山県有朋の働きかけがありました。前年11月にも再度信越・北越両鉄道発起で、上田〜新潟間の鉄道を政府に請願した上越実業界には大朗報でした。
 直江津〜上田間の測量は、10人年5月から始まりました。19年1月には上田〜追分間測量も指示されました。小諸〜軽井沢間計画は、小田井(現御代田町)の平坦部に停車場を設置するという緩勾配路線でした。ところが地元側の大反対にあい浅間板腰の急勾配地点に変更されました。20年には軽井沢まで測量は終わりました。土地買上げ代は「田地3倍3分、畑3倍4分、宅地4倍、桑樹ハ一抹3銭ヨリ5銭ヲ以テ移植スルコトニ定マレリ」(明治小諸沿革誌星野出耶之助稿本)というのが小諸地域でした。軽井沢地域も大同小異であったと考えられます。19年8月15日直江津〜関山間が竣工し、21年5月には長野まで完成しました。ところが関東側は9月に至っても横川〜軽井沢間で、馬車鉄道がようやく営業開始するという進み具合でした。上田〜軽井沢間も12月1日には完成しました。とくに難工事は、小諸〜借宿間の急勾配でした。「起伏も激しく浅間山の山麓を海抜95入メートルの地点まで登るために、線路を幾多迂回させながらも、なお千分の25の勾配をとらなければなりませんでした。そのうえ大規模な築堤、切り取りが多かったです。」(長鉄20年史長野鉄道管理局)御代田停車場がスイッチバックになったのも、急勾配路線のためでした。
 計画段階で中山道幹線枝線と名づけられた資材輸送線は、19年に幹線が東海道に変わったため、直江津線と呼ばれる本邦初の本州横断路線として、交通運輸の重要部門をになうこととなりました。
 全通後も直江津〜軽井沢間の直通運行はされず、直江津〜長野と長野〜軽井沢に分かれて運行されました。そのため軽井沢を午前6時発で直江津に向かっても、長野停車場の待ち合わせ時間が一時間50分もあり、直江津到着は午後2時33分となりました。軽井沢は碓氷線と接続位置未定で、駅舎ほか設備もすべて仮建築の出発でした。運賃は下等で軽井沢〜御代田が10銭、小諸18銭、上田32銭、長野60銭と、米一升が7銭ほどの時代には大変ぜいたくな乗り物でした。
 開通の22年度、軽井沢の乗降客は他駅を断然ひきはなしていました。直江津線の開通は、軽井沢停車場を始発と終着駅という交通上の重要駅としました。ターミナル駅として馬車逓と接続し乗換駅ともなりました。その賑わいは路線中間駅では考えられないことでした。たとえば信濃毎日新聞蟻添上で、「8月1日陸軍工兵大佐一家が来着、旅館で休憩後終列車で長野へ向かいました。帝国大学以下教授2名は、油屋支店で休息後に碓氷馬車鉄道で横川へ。二目に鍋島侯が東京から来着して油屋へ一泊、今朝第一列車で長野へ向かいます。大審院民事第一局長南部氏は当地に来られ油屋支店で休息後、追分にある本店へ投宿」(信毎軽井沢通信 二二・8・24)などと動向を伝えました。休息・休憩それに宿泊と、新軽井沢集落は出入りの激しい駅前市街地と化し、景気も一気に上昇していきました。
 荷物の移出入畳も、直江津線停車場のなかで突出した状態が4年間続きました。当時の新聞は軽井沢繁盛の見出しで、『昨今は都会なりけり軽井沢』とし、「今日この頃の繁盛はさても珍らしき有様なり」と記し、つづけて「汽車笛声の発着も什鹿に幅まる停車場あり、本県種畜場・鳥居牧場・大野農舎に雨宮の開墾場あり、桂次官の別業は清麗造かに建築成り、都人土の集う遊技場にはすなわち玉突の浅間軒あり、今西洋人の滞在も現に数えて百有余人、白から家を建てし西洋人も5人と聞く、げに天倖と申すべし……」(信濃毎日新聞 二二・823 と繁盛している様子を伝えました。横川駅との間の積哀込み積み降しで、駄送する荷は軽井沢駅に山積されました。日影通りの村々も馬方稼ぎで潤い、馬車屋・鉄道馬車屋とも鼻息が荒かったといいます。
北軽井沢物語軽井沢観光ガイド軽井沢グルメガイド