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軽井沢の歴史-23

 中山道幹線鉄道の高崎〜横川の起工は、明治17年(1884)10月20日に行われ、開通はちょうど一年後の10月15日となりました。日本海側から起工された直江津線も、21年には急速に工事が進み、長野開業(5月1日)、続いて上田開業(8月15日)、軽井沢開業(12月1日)と全線の営業にはいりました。

 東西から碓氷峠を目ざして進む岡蒸気計画の進み具合をみて、21年(1888)1月碓氷馬車鉄道会社は群馬県知事に、上信国界より新軽井沢まで路線延長を出願しました。碓氷峠区間は当分、現在の鉄道技術や機関車の牽引力では通過不可能の見通しに立っての願いでした。

 長野県知事から上信国界〜新軽井沢間の馬車鉄道布設命令書の出たのは21年5月12日でした。24条の命令事項には、免許年限は満5年、外国人抹主は不可、4ヵ月以内に布設工事に着工し、工事は一ヵ月で完成することと厳しかったです。群馬側の横川から上信国界まで布設についても、工事中の横川〜坂本間につづき認可されました。

 レール敷設は、七道開整路線第2号線として完成した国道を利用、資材運搬をして道路北側沿いに路端より2尺一寸5分離して工事されました。碓氷新道の横川〜軽井沢間の距離が、4里25丁18間であったのに対し、馬車鉄道の軌道は5里16丁でした。

 この差は中山道軌線鉄道横川停車場までの引き込みや、ヵーブ部分の総延長くらいの差でした。短期間に工事完成を県から指示されてから、区間を分けて突貫工事がされ、多くの工夫が動員されました。軽井沢停車場予定地までの完成は21年8月下旬で、開業は9月5日となりました。ちょうど直江津線側も工事完成を間近かにし、急ピッチで仕事が進められていましたから、新道の工事現場は鉄道と馬車鉄道の両方の資材運搬や働く人夫で相当な混雑を呈していました。

 道路ぞいに敷設した軽便レールとはいえ、工事費は土木費2万840円余、レールと付属品で4万1828円と、会社資本金の73パーセントが使われた(二二年3月、碓氷馬車鉄道会社21年営業報告書)。購入車輌は全部で76輌におよび、なかにはヨーロッパからの直輸入車輪もありました。内訳は、客車2頭曳き10輌、貴重品運送車2輌、貨車60輌、雑貨運送車4輌でした。こうした準備や工事に借入金9、636円余が支出された(前掲営業報告書)。そのため当初考えた営業年限5ヵ年程度では、到底収支相償う見込みはたちませんでした。22年4月には営業年限を30ヵ年に延長変更を再申請した(碓氷練物語 八木富男)。
 営業許可時間は、午前5時より午後9時まで、新軽井沢泊まりの客を乗せて下り、横川発一番列車に間に合わせるなど接続の工夫がされました。横川〜軽井沢に馬車鉄道が走って数ヵ月、12月には直江津線が軽井沢まで開通しましたから、上り下りとも旋客輸送や貨物輸送は、繁盛以上の混雑を示しました。

 軽井沢停車場の乗車人員は
 明治22年7万7535人、
 23年9万3303人、
 24年9万5334人。
 下車人員は
 22年8万9644人、
 23年10万542人、
 24年9万9349人で、ほとんどが、軽井沢以外の客でした。鉄道馬車ばかりでなく馬車、人力車などの輸送車を総動員しても円滑にさばききれない人員であつた。また購入した貨車60輌も、横川から峠をのぼり直江津線に積み込む荷物、軽井沢で馬車に積み換え横川停車場に向かう物資等々で混みあいいました。鉄道馬車・人草・馬車・荷車・駄馬と、新道は峠を上下する人と串のラッシュの数年が続きました。

 区間の通行には2時間半を要しました。上等は5人乗りで一頭曳、下等は10人乗り2頭曳で、下等運賃は40銭でした。

 明治23年(1890)8月、森鴎外が乗った馬車は、車体を青ペンキで塗った木製車輌で、定員オーバーの12人も乗車していました。

 「つくりつけの木の腰掛けは、「フランケット」2枚敷きても膚を破らむとす。右左に帆木綿のとばりあり、上下にすじがね引きて、それを帳の端の環にとほしてあけたてします。山路になりてよりは、2頭の馬喘ぎ喘ぎ引くに、軌幅きわめて狭き車の震ること甚しく、雨さへ降りて例の帳閉じたれば息寵もりて汗の臭車に満ち、頭痛み堪へがたし。嶺は5、6年前に除えしをりに似ず、泥浮、躁を没します。こは車のゆきき漸く繁くなりていたみたるならむ。軌道の2重になりたる処にて、向ひよりの車を待合いはすこと2度。この間の長きときは30分もありません。あたりの茶店より茶菓子などもて来れど、飲食はむとする人なし。」(みちの記 森鴎外)

 鴎外の文章にあるように、新道はあまりに交通量が多くわだちの跡ばかりの道となり、雨のあとなど人や車泣かせの悪路となりました。

 明治19年公債まで募集し、地方住民に鉄道開通の暁はの夢を抱かせた中山道鉄道は、東海道鉄道紀行の閣議決定で計画は消滅しました。こうしたこともあって、横川〜軽井沢間の開業は相当先きのことと判断されました。だが23年度に碓氷鉄道の建設予算が計上され、馬車鉄道側を驚かせました。営業期間数年では利益どころか投資分すら回収できず、短命で廃業に追い込まれる心配が生まれました。国側は鉄道敷設のため、馬車線路の地所買い上げ、線路横断、変更を会社に申し入れ、足元に火がついた状況になりました。馬車鉄道会社は、再三にわたって政府や大臣に歎願し、国側の全面買収を希望しました。だが国の対応は厳しく、再三の懇願にもかかわらず買い上げ責任も保証義務もないとすげなかったです。

 この会社には佐久側から、上田十九銀行頭取の黒沢鷹次郎や中牛馬会社など、輸送業者の出資がありました。群馬・長野両県の陸運企業家の共同出資で、馬車鉄道は直江津・中山両鉄道を結ぶ連絡交通機関として目論まれました。だが日進月歩の鉄道技術には勝てませんでした。鉄道敷設の進行を横目で見ながら営業が続けられました。そのうえ因果にも鉄道工事資材運搬に、収入を求めるなど自縛的営業を続け、26年12月31日、ついに営業を廃止しました。
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