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軽井沢の歴史-22

 碓氷新道の開通は、天下の険といわれた碓氷峠越えの交通に一大変革をもたらすこととなりました。

 歩行中心で高価な駕寵利用などまれだった旧道と違い、曲折は多いですが、道幅も広く勾配もゆるやかで、女子や子供の通行も心配ありませんでした。大八車も通行できましたから、いまま一で和美、入山など峠越えで駄送した中牛馬士たちも、この峠路を利用し始めました。だが時間的には旧道が近いですので、旧道は足腰の強い男たちに利用されました。また新道は路肩崩れや、ぬかるみが雨の後に多く、車馬通行の泣きどころとなりました。

 碓氷新道は商取引の方向さえ変え、物資の流れや量を変化させました。駄馬、人背中心の山越えが、馬車・荷馬車・牛車それに荷車も登り下りする道路状況となりました。荷物はかりでなく、人も馬車や人力車で通行するなど、交通上の一大進歩をもたらしました。横浜を目ざす生糸、製糸場への繭などの信州側の物産と関東の物資の大量輸送時代にはいった感がありました。

 運輸業者のいくつかが、馬車営業を始めたのも、こうした新道事情によるものでした。長野中牛馬会社の中沢与左衛門が、高崎中牛馬会社と共同して、横川で乗降する貨客の連絡輸送を始めました。追分駅の旅宿と結び、追分発朝4時の早立ちで横川始発列車に間に合わせました。

 追分から日に4回横川に下り、長野町からも連絡していた(信濃毎日新聞18・2・14広告)。この長野西北馬車会社のほか、雲場共同馬車会社や小諸の関5太夫の始めた軽井沢〜長野間馬車(2年)などもありました。これらが共同や個人営業でされ、2頭立ての幌馬車が荷馬車の間をぬって往来しました。

 明治21年の馬車は全県で86台、そのうち北佐久郡が31台を占めました。中山・北国両道や碓氷の峠越え交通のための機関でした。2頭立ての馬車にいたっては、全県下所有数30台の60パーセントの18台にもおよんでいました。国道を交通する人の利用のひんぱんさが、2頭立て幌馬車を景気づけていたのでした。

 新道通行の人や諸事それに牛馬車の往来は、21年(1888)夏の鉄道馬車開通後も続きました。

 明治17牛秋9月、新道の交通量調査は、人も荷物も関東へが多かったです。上野から高崎までの私鉄日本鉄道会社の開業は17年6月25日でしたから、東京への荷は新道を下り高崎駅を目ざして続きました。輸送の花形馬車、荷馬車に乗る別当には、宿駅の仕事を失った軽井沢の村々の人々が再就職していました。

 東京から高崎まで汽車が通じたために打撃を受けたのは、佐久米の上州への移出でした。江戸時代を通じて需要があり、時には米穀安売り一揆さえあった西上州のお得意を失いました。列車輸送による関東からの米で上州の畑作地帯は間に合い、佐久米の引き合いは急に減少しました。羽振りをきかせてきた借宿の米穀業者の没落の第一歩でした。佐久に入る味噌・醤油など醸造塩の流れも関東からに変わり始めました。反面繭や蚕種など物産や、貿易の重要品の生糸の移出は新産業道路によって増加しました。

 明治24年5月、俳人正岡子規は横川から鉄道馬車で新道を進み長野県人かしました。
 見あぐれば信濃に続く若葉でしょうか
 山々は萌黄浅黄やほととぎす
 碓氷新道を馬車にゆられ、森林浴の行でした。

 産業道路開削で新道ができますと、人も荷も旧道越えは淋しくなりました。ちょうど西南戦役後のインフレに対し、政府はデフレ政策で収拾を図るうとしていたため、軽井沢宿の経済はドン底に落ちました。

 軽井沢旧道の家々は、こうして25、6年には幕末まで200戸近く数えた戸数が、常住30余戸の寒村となってしまったのでした。新築ブームに沸いた矢ケ崎は、開通した新道ぞいの原野に、旅宿、運送店、茶屋、雑貨屋、料理屋が立ち並びました。移住者は軽井沢宿からが多かったですが、追分・沓掛の付近や村落から移った家もあり、その数は100軒を越えました。

 思わく移転は的中し、新軽井沢は、輸送関係を中心に賑わいました。21年12月から直江津線が開通しますと、越中・越後などの物産や東北信の旅客と貨物は、一旦ここで降ろされ、馬車や馬車鉄道に乗せかえられ横川駅と連絡しました。旅客・貨物の中継地とし、駅前の雑踏や賑わいは活気を呈しました。交通路線の変化が明暗を分けた、新旧軽井沢の繁栄と衰退でした。

 また追分も、碓氷新道が開け、峠路を馬車が走る時代となって、急に宿泊客が減少しました。さらに21年12月には、直江津から軽井沢まで鉄道が開通して、繁栄の道を閉されてしまいました。仕事を失った交通関係者などは、職を求めてよそに移っていきました。旅寵経営者も、復興策として九戸を岩村田遊廓に移すなどしました。こうして江戸時代栄えた宿駅も、交通新時代のなかで見る影もなくなっていきました。
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