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軽井沢の歴史-21

 長野県と群馬県と連署で、両県実地調査と工事費負担で、碓氷峠新道開整伺を内務卿大久保利通に出したのは、明治9年11月のことでした。物産移出入と輸送路に悩まされていた地元民は、大歓迎で潰地は無代で差し出しを申し出るほどでした。

 両県の調査は、ルートとして横川より追分に出る入山道が非常に便利と判断しました。だが宿駅の坂本や軽井沢・沓掛の人たちの生活を考え、開削上の不便を理由に住民に実害のないルートを決めました。新道は坂本より山々の中腹の平坦部を縫って、軽井沢に至るルートで坂本、軽井沢、沓掛宿の影響を避けた路線でした。そのため峠の難関の解消は二の次の新道でした。この道は11年の明治天皇のご巡幸時にも、地域住民の奉仕で整備がなされました。山道の通行は大分楽にはなちましたが、巡幸前日の雨で通行困難になるというほどの悪路でした。交通自由時代、第一に望まれたのは碓氷峠のネック解消でした。だが当時の土木技術や資金ではどうにもなりませんでした。

 大開整により碓氷峠に新道をの口火は、「道路県令」 といわれた大野誠県令によってでした。明治15年(1882)3月の通常県会には、六道建設が県会への諮問として提案されました。反対論もありましたが、「道路建設の経済的効果が年3〜5万円にのぼり、一戸あたり年15銭程度の負担は大きな負担ではない」(通常県会議事録第4号)という主張が大勢を占めて県会を通過しました。県債60万円募集も県会を通過しましたが、政府の許可は得られませんでした。しかし、同年末の臨時県会は、7年分割で地方税からの支出と、全県から10万五、000円の寄付募金を決定しました。また六道に旧甲州街道を加え7通関聾と計画路線は拡大されました。

 第一路線は県の表玄関であり、物資の移出入の大動脈の碓氷新道となりました。16年2月に実測が始まり、6月には終了しました。その結果最良路線と認定され、群馬県側とも協議して申請されました。申請に対し内務卿の許可が11月7日に下り、同時に補助金1万8448円の給与が国側から示されました。

 仕様書は従来の中山道を離れ、長倉村離山から耕地原野・沼地などを一直線に東へ進み、33丁で矢ケ崎山に達する路線でした。それから山麓を北方に迂回し、在来の国道や古道を横ぎり、坂本まで5里13丁40間、平均勾配は34分の一とされました。道路敷は平坦地は4間、切割場所は三間−3間半、火山灰を路面に敷き、ローラーでならすなどの工法がとられました。橋はすべて木材、橋台は石材とし、車馬通行も危険でないように工夫されました。

 工事はほとんど請負で、明治16年8月に着工して17年5月22日には開通しました。古来から至難の天険とされた碓氷峠道も、こうして平易な車道と変わりました。工期は10ヵ月ときわめて短期でした。予算は12万円に対し、8万5346円余の実際額で完了しました。以後第7路線まで連年の工事が進みますが、内務省は産業路線開整に7ヵ年に亘り、工事額9万円の3分の一の国庫補助をしました。こうして産業発達条件が整備され、蚕と製糸の王国の基ができました。路線の群馬側に属する分は、18年11月引き渡しを行い、本県分は29年から通常土木費に移されました。

 工事費は県民からの寄付金を重要財源としました。そのため県は郡役所を通じ各戸長に、寄付募金運動をさせました。

 北佐久部下の申込額は1万691円でしたが、松方デフレ下の不景気で25年の決算時には、寄付金進捗率は81パーセントで、2、721人の寄付者となりました。

 碓氷新道にもっとも近く、利害ともにもっとも多いと思われる軽井沢地域では、金円と労力提供の人夫による労働奉仕がされました。追分の場合は不景気続きで、申込額は取り消し3人で30円が減額となりました。

 碓氷新道の完成によって、坂本、沓掛、追分は依然として道路ぞいにあたり、生活上の不便はありませんでした。だが新道から離れた軽井沢宿と峠町は、交通上の不便はかりか、通行客からの収入や宿泊客も失う結果となりました。維新以来廃された宿駅手当のほか、交通の中心からも遠ざかり、沓掛、追分とは明暗を分けました。改修や新設のたび旧宿駅の利害を考えた路線決定がされましたが、今回の七道開整の主眼は産業優先でした。このため、ルート決定に始まる道路開整は、宿駅の利害を超えて実施されたのでした。
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