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軽井沢の歴史-20

 筑摩県では、明治6年(1873)に筑摩県下問会議が設けられ、9月に第一回会議が開かれました。7年は中止されましたが、8年9年と続きました。長野県側は、9年5月に長野県会議要領と長野県会議規則を編成しましたが、県会は構想で終わりました。県会への建言は何人に限らず許すとか、常会で審議されることになっていました。

 議員は各大区区長と各大区戸長総代一名ずつと、ほかに議事掛2名が置かれる内容で県会は構想だけに終わり、開催は合県後の長野県にもちこされました。

 明治10年8月15日布達は、9月15日限りで議員104名の選出を指示しました。10年6月の区戸長代表県議のうち、また公選議員になった者は、臨時県会の北大区の区戸長代表56名中の43パーセントでした。

 明治11年7月府県会規則が公布されました。府県会設置の制度化によって、今までは行政上の区画にすぎなかった県が、自治団体となりました。地方議会の設置によって、いくぶんなりとも地方分権に光がさしたといえます。間接公選による県会は一回限りで解散し、府県会規則にもとづいて、明治12年2月中旬県会議員選挙が行われました。第一回の選出議員は、佐久地方では柳沢禎三(川辺村、現小諸市)・高橋平四郎(小諸)・神津吉助(志賀村、現佐久市)の3名でした。いずれもが豪農豪商出身で、庶民代表というよりも、経済上層者の政治舞台への登場となりました。以後23年府県制発布まで、この傾向は続きました。

 議員有資格者は25歳以上で県内に本籍をもち、満3年以上居住し地租10円以上を納める者とされました。選挙人も20歳以上、で郡区内に本籍をもち、5円以上の地租を納める者でした。軽井沢地域の場合、国道整備による物資輸送も少なく、鉄道も開通前でドン底状態の経済にありました。それゆえ地租10円の被選挙人も5円の選挙人も少なかったです。制限選挙の上に立つ自治であり、有権者は全人口の3〜4パーセントにすぎないともいわれました。参考までに記しますと、明治15年の直接国税5円以上は北佐久中で2、976人で全人口の約10パーセント、10円以上は一、203人で約4パーセントでした。しかし自治上では、議長を議員中より公選できるようになったこと。民費の徴収使用については県会議決によるなど民主的内容が加わりました。
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