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軽井沢の歴史-19

 明治11年(1878)8月30日から72日間の北陸・東海のご巡幸は、6大巡幸の中でももっとも長期でした。県側の準備は5月下旬に始まり、奉迎指示は60項目にわたりました。政府側の下検分も2回、入念な巡視点検がされ、「人民心得書」の布達もされました。長野県は9月6日から9日が北信地方の巡幸でした。

 坂道、崖、屈曲、高低と道路整備は、かつてない大作業となりました。全部落が総出で農繁期中の労働奉仕でした。石碑石仏を道端から移転し、橋の修繕もされました。盛り土は馬車で運ぶなど、道の姿が変わったほどの普請がされました。指揮の厳しさと酷使に、人々が激昂して追分分署に殺到し、ガラス戸を打ち破る勢さえしめした(軽井沢町志)。農繁時期の炎天下に、無賃労働にかりだされた慎まんがここにありました。

 峠町でも敷砂をし、道の両側に竹を立て江連を張り、国旗や提燈を飾りつけました。他の三宿も同様な飾りで、正月と祭りが同時にきたような体裁となりました。国旗掲揚はこのときが村々にとって最初のようで、染物屋は昼夜兼行の大仕事となりました。当日の行列は同行供奉だけで818人、群馬、長野両県係員数百名と記者連、継立ての人馬等々で和宮降嫁以来の大混雑でした。

 明治維新により王政復古したとはいえ、表庶民の頭には「将軍や旧藩主の存在はどには天皇に対する認識はありませんでした。そこで維新の意義と王政の威風をあまねく全国津々浦々に徹底せしめる」(日本政治百年史)というプランは岩倉具視らブレーンの計画でした。綿密な計画と、手落ちのない準備がされ当日を迎えました。

 9月6日峠町ご小休!
 軽井沢宿でご昼食
 追分お泊まり、
 7日ご出立
 唐松坂ご小休
 小諸ご昼食
 上田学校お泊まりと御巡幸の日程は進行しました。

 拝観人は南佐久の奥からも、親戚知人を頼り泊まりこみで集まり、小学生も引率されて北国街道に参列しました。沓掛付近の行列の通過は、一時半に始まり5時半になっても本隊の通過にならないという、文字どおりの長蛇の列でした。マンテルズボンに銀色のサトンヘル、金銀赤など横筋入りの鳥毛つき帽子、洋服の裾や胸飾りの儀伏兵、象皮の長靴、馬車をひくアラビア産の栗毛馬。また燃える火に金モールの服で、抜身の穂先をきらめかす騎兵隊、紫チリメンのカーテンつき馬車等々、雲集した人々の度肝をぬく演出でした。旧幕時代の乗り物の駕寵は無く、坂城辺までも集めた人力車五百台が使われました。

 この行進は徳川三百年の政治と諸大名参勤の威勢を、忘れさせるに充分な行列でした。西欧先進国の絵巻物か、文明開化の錦絵をみるようなオンパレードは、とくに少年少女たちの脳裏に焼きつき、成人の後々まで興奮の語り草となりました。民選議院設立運動や民権の叫びもあるなかで、ものの見事に民衆の心をとらえ、天皇親政を刻みつけた一ページでした。

 新時代の到来で、宿駅は大打撃を受けていました。本陣・脇本陣が脚光を浴びたのは、維新以後これだけでした。大名行列通過にも似た賑わいは、宿村の終わりを告げる最後のフィナーレでもありました。北国街道をゆるがす新時代の足音は、2本の電信線とともに、文明開化と天皇統治を人々に具体的に意識させました。
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