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軽井沢の歴史-18

  明治11年(1878)7月、大区小区制を廃し、地方制度を確立した「都区町村編成法」「府県会規則」「地方税規則」のいわゆる「三新法」が制定されました。「郡区町村編成法」によって、佐久郡は南北2郡に分かれました。さらに、戸長の公選(民選)制度が発足しました。はじめての民選戸長は、戸長公選規則によると「満20歳以上ノ男子ニシテ、其町村2本籍、住居ヲ定メ、其町村二於テ地租ヲ納ムル者ニ限ル」とされました。

 明治12年4月の戸長公選規則は、「一町村又ハ数町村21名ヲ公選スヘシ」とありますから、追分村は用掛土屋市平と代議人里見理平・小川伊6・関多三郎で、村政運用とも考えられます。選挙人も20歳以上の男子の戸主で、その町村に本籍住所を定めた者に限るとされました。投票は記名投票で実印をおし封印し戸長に提出、戸長は投票をまとめて郡長に提出という手順でした。開票は県会議員一名立ち会いで、投票数を数えるという方法がとられました。過半数得票者の無いときは、高点の者3名を郡長意見をつけ県に提出、県が辞令を出すとされました。公選・民選といいながら、郡長が介在し県側が任命という半官的なものでした。この制度は明治22年の町村制まで続きましたが、民選戸長は次第に官選色を濃くしていきました。

 3年ごとの改選は、県の指示により郡長が選挙日程を決め、投票は郡長のもとで開封されました。また郡長の意見を付けて県令に具申するというように、戸長の決定も任命も行われたことに問題がありました。

 明治12年6月、「北佐久郡軽井沢村戸長申付候こと、長野県」というような触善が出て、峠町は水沢瀬織、軽井沢村は佐藤耕平、長倉村は土屋荘蔵に、それぞれの戸長が決まりました。

 戸長役場が開設されましたが、便宜上より私宅において事務をとるも若しからずということで、立派な役場が建ったわけでもありませんでした。とくに明治17年6月の戸長公選規則改正で、被選挙人の年齢が満25歳以上となりました。そのうえ第一条は「郡長ハ選挙ノ日限ヲ定メ其町村内−左口示シ、5名ヲ選挙セシムルモノトス」としました。郡長が開封し「得点者5名ヲ別表2列記シ、中2就キ意見ヲ附シテ県令二具申ス」という方法で区長制度が発足しました。

 明治18年2月には、戸長配置区域と役場位置が決まり、2月末日限り旧役場は閉場しました。また、今までの民選戸長は不成績であるという理由で、2月限りで廃止され官選に改められてしまいました。この2月には町村費節約を目的として、連合町村制が実施されました。役場位置は追分となりました。連合村は追分、峠町、草越、軽井沢、長倉、発地と広範囲におよびました。

 茂沢は横板に役場を置く、下平尾、広戸、面替、豊昇、上平尾、横根と一緒になりました。追分村役場の村政範囲は、戸数752戸となり、その連合6村の村長は、猿久保村(現佐久市)の秋山清作が任命されました。
「戸長ハ府県知事、県令之ヲ選任ス」
と、まったく上意下達の役所となり、県側の顔色をうかがい県の意向や命令ばかり気にする下部機関となってしまいました。連合町村制は、一面には西南の役以来の軍費処理や松方財政のデフレ政策による農村の経済的な窮迫にもありました。また民選戸長には、民権的色彩の強い者もあり、人民要求を重視し行政上の支障となる場面もありました。こうしたことが、中央集権的再編成を意図する政府に、市町村制施行などへの準備を急がせたといえましょう。
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