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軽井沢の歴史-17 長倉村

 明治7年(1874)から11年は、町村合併が推進された時期でした。政府は新行政村を決める一方で、村費節約で住民負担を軽くする意味から、戸数のわずかな村々の合併を推進しました。

 県の方針もあって合併願は増加の方向にありました。ところが一方では、合併にともなう苦情や紛争が続発しました。そのうえ政府の行政区画方針は再三に亘り変更されました。合併促進が布達されたと思いますと、翌年には抑制方針に変わって不許可となるなど揺れていました。

 長倉村の誕生も馬取萱・発地の合併も、こうした政府方針による町村分合実によって生まれました。当時の合併理由は、県側の合村願書によると、

(1)耕地が他村と混在し、そのうえ飛び地もあり、地順地押番号に差し支えます。
(2)両村の耕地があい接しており、一村を形成しています。
(3)耕地山林などあい接しており別村では不都合。
(4)用水、株入会など今まで一相同様にしてきた、今別村では万事不都合です。

などに類別されました。

 明治8年沓掛・借宿(含塩沢新田)・油井・成沢新田の4村から合併願書が出されました。願書は合併して長倉村と呼称したい理由として「右4ヵ村之儀耕地山林等接居別村相成居候ニハ万端不都合2付是迄ノ村名ヲ廃シ協議ノ上更二長倉村卜称シ合併致シ度(県市町村合併誌資料以下同じ)」としています。発地相と馬取萱村からも、両村合併したい旨の同様な願書が出されました。

 願書類は他村の合併願とともに、内務卿に合併伺いとして提出されました。ところが国の合併抑制方針により一旦は不許可となりました。願書のいう地所の各村混在で不都合、諸々に差し支えます。また他より故障もありません。という村の申請に対し、地所の錯雑混みあいとは見えない部分もありますから、やむを得ない村で方法のないものだけ再度申請せよと内務省は合併願を突き返したのでした。

 しかし、村側は申請の年をもって合併の年としたのか「明治8年中耕地接続するを以て借宿村・油井村・塩沢新田・成沢新田の4耕地をあわせして、さらに本村の旧名長倉村に復す」と『長野県町村誌』には記されています。また発地相も「本村と馬取萱村とはかつて一村たりしを元禄4年に至り、別村となれり、明治8年あわせして一村となり、本村の称に改む」と8年を合併年としています。正式許可は、明治9年8月2日でした。

 茂沢村と草越村の2村合併も、同様に長野県権令の指導によってなされました。明治8年両村は合併村願書に記しました。許可は9年8月2日で、新治村が発足しました。こうして、9年9月9日の町村区画の全面的な改正までに、合併はほとんど完成しました。合併前、963力町村あった旧長野県下の町村数は、531力町村に減少しました。同様に佐久郡の場合は214村が129村と40パーセントも村が減少しました。
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