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軽井沢の歴史-16 峠町

 熊野権現神社の社家町は、元禄時代がもっとも発展繁盛した期間でした。碓氷の山内に峠町の分村ができ、諸所に散在する茶店をあわせれば、80数軒にも達しました。その峠町は江戸時代上州分は安中領であり、信州側は小諸領から幕府領となっていました。また行政上も上州側、信州側とも名主などの役職はなく、社家・社人で便宜に触役をおいて仕事をしていました。

 また江戸時代は除地とされ、無高無年貢で諸役すら御免という土地でした。税地となったのは地租改正以後で、開発は私墾であるからと無代払い下げになり、明治10年(1877)から税対象地となりました。収入は牛壬御祓札配布や祭礼の初穂料・代参世話料・茶店商いくらいでした。したがって熊野神社に奉仕する神職集落として存在し、軽井沢の他の宿場や農村と総べてが違っていました。

 今まで特有な自治や触役で間に合わせていた峠町も、新行政では他村岡様に村役を置いてことにあたる必要がありました。明治2年に18戸76人と構成員は少なかったですが、仕事の費用も他の集落と同じになりました。権現様の町だからという恩典や免除もありませんでした。こうした原因で明治5年に、佐久地方最初の併合統一に踏み切り、峠下の隣村軽井沢村と合併しました。明治5年軽井沢宿との合併は、峠町が自然村から行政村への組み替えに対応したものでした。5年4月に太政官布告もあり、県も内務省へ伺いを出していました。

 ちょうど明治7年から11年は町村合併の時期で、とくに8年から9年は佐久地方村々の合併最盛期であり、峠町・軽井沢村の合併はその最初ともいうべきものでしたが、明治12年に、合併7年にして両村は分離しました。併合のメリットに期待した両村でしたが、別れた原因はさまざまありました。祭祀・歳事中心の峠と宿泊客対象の宿駅では、まず生活基盤が違っていました。人情風俗面でも違和感がありました。

 ともに衰退時期にありましたが、その挽回方向でも一致できませんでした。距離的な速さからの不便も、連絡や会合ごとにありました。こうした事情が、村費負担額や村務の忙しさに換えられないという思いとなり、分離願い提出となりました。

 このころ、町村分合を扱う役所は、大蔵省から10年には内務省に移っていました。明治11年に郡区町村編成法もでき、大小区が廃止され町村を「住民社会ノ区画」と認めました。これが峠町の復帰する条件の一つとなりました。県は町村統一促進のなかで、願いをやむなく認めたのでした。22年の東長倉村誕生まで、峠町は佐久地方最小村として10余年の自治を続けました。
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