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軽井沢の歴史-15

 明治13年頃の軽井沢5村の農産物は、高冷な畑作地帯でした。自給自足が主であり、刈敷など緑肥や木灰、人糞尿などを肥料とし、鍬や鋤などを使って人力による耕転がなされました。毎年自家産の種をまき、草かきや下肥を撒くくらいで、病虫害予防もなく、技術や工夫も少なかったです。したがって、作物は自然条件に左右され、収穫の良し悪しは天候によるところが多かったです。

 この地域の作物は早生種が主で、品種は下等か下々等でした。幕末から海外貿易も開け、生糸が脚光を浴び、繭が換金物産として登場しましたが、早霜・晩霜などで桑葉が凍死し、蚕の飼育はままなりませんでした。明治3年に国は殖産興業政策により、官営製糸場設立を決定し、フランス人技師ポール=ブリユーナーに土地選定をさせました。

 適地を求めて彼は追分にも巡視に入りました。水がきれいで薪炭に富む軽井沢地域に、若し養蚕が盛んであったら官営模範器製糸場が設置されたかもしれませんでした。だが桑樹に乏しく、養蚕も未発達で候補地に上がりませんでした。明治6年当時は借宿の蚕の飼育者は九戸だけで、その収量も繭2貫650匁と僅かで他村も同様でした。

 明治7年、追分村では扶桑社(旧本陣 土屋一三)が設立され、原野を開墾し養蚕の振興に着手しました。換金性の高い蚕への着目で、追分の生業転換を目ざす意図はよかったです。だが、冷涼と冬の寒さが桑苗の根付きの障害となりました。掃立枚数にくらべ生繭収量も少なく、飼育も思うにまかせませんでした。そのため明治10年代の軽井沢村の飼育は、自家用の真綿や晴れ着用程度にすぎませんでした。

 五穀類も質は下等で自用でした。冷涼な気候はかりでなく、地味地質にも原因がありました。この地方の作物は、江戸時代と同じで新作物は見当たりません。商品経済の浸透には増反と増石、それに中馬稼ぎで対応してきたようでした。家産については風俗欄の記載には、富者2分・貧者8分(峠町・軽井沢村)、富者2分・貧者一分(長倉村)、富者一分(発地村)、富者2分・貧者7分(追分村)と、いずれの村も厳しい状況でした。新時代のなかで峠町には、各戸に県から今後の生計について調査がされました。各戸報告は、茶屋、兵士、筆売り等々と身の振り方の対応を記しました。

 農閑期の薪炭製造や販売ばかりでなく、年間通じて賃馬稼ぎで生計をたてる家がありました。峠越えの諸材、とくに繭・食品・生活用品の駄送は非常に盛んで、中牛馬会社に所属して、馬士登録をしたり、馬の鑑札を受けた者もいました。

 油井・借宿・離山などの地域が中心でした。このほか荷車を購入、あるいは借用して、追分駅車夫などに登録し荷物運搬にあたりました。国道沿線であり旧来からの店もあり、商業や旅宿も多かったから人力車数も他を圧していました。明治5年6月には初めて人力車が県から月2両2分で貸し付けられました。7ヵ月納入で、入力月目に払い下げという方法がとられました。

 人力車は軽井沢宿7輌、追分宿70輌と、県内屈指の数でした。また追分の馬車12輌、荷車10輌もきわめて特色がありました。明治10年代初めは、まだ駄馬、人背運搬が中心の時代でした。交通要地の軽井沢地域ならではの、馬方や諸車稼業がここにみられました。

 冬期の製造物は、薪炭を主としていました。10月初めから山に入り枯れ木伐りが始まり、5月初めまで山仕事がされました。松・もみじなどの丸太の伐り出し、割木づくり・炭焼きなどがされました。冬期は旅人の数も少なく宿も暇のため、旅宿主人でさえも山仕事に精出すこともありました。

 特色ある出荷品には牛馬の荷鞍・馬沓などがあり、草葉も農閑期に作られ、小諸の荒物問屋へ出荷されました。白木綿は農閑の女子の仕事として機織された、自家の衣類をまかなうばかりでなく、仲買人をつうじて糸との交換や販売がされていました。

 発地相の物産中に鹿5頭と雉子350羽があります。明治20年(1887)代まで周辺の山野には雉子が多く、鉄砲鑑札を受ける者が村々に数人ずつもありました。明治初年は軽井沢宿近辺には、素人でも雉子が年に40羽もとれるほどいました。兎・鳩・時鳥・山鳥なども料理店へ売られました。(武助日記)20年代になっても鉄道馬車で上がってきて都会人が狩猟する姿もみられたほど獲物が多い土地でした。
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