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軽井沢の歴史-14

  明治2年政府は、寺社の除地を政府に納めさせ官有地としました。14年作成の『峠町村誌』は税地の項に「本村元畑、宅地とも渾て熊野神社の除地たるを以て、明治7、8年の除、税地無之、同10年に至り私墾の故を以て無代下与となり、爾来税地となる」と記しています。

 江戸時代三百年を通じ、あるいは鎌倉時代から熊野神社は除地無税地でした。ところが2年になると境内を除き、臨地の上知がされ、それまでの無税地は税対象にされました。地租改正は、土地制度および税制の大改革であり、明治6年(1873)の地租改正法によって本格化します。これに先立って、長野県でも土地丈量(地押丈量)地価算定の作業が明治5年から始まりました。

 長野県の地租改正事業は、明治8年から本格的に着手されました。軽井沢でもあらたに官選された正副戸長と用掛・代議員、それに村役たちが県更の指導を受けて調査を開始しました。第一小区の峠町・軽井沢・沓掛・追分・借宿それに塩沢新田などは、戸長佐藤織衛(軽井沢)と副戸長土屋13(追分宿)が、担当責任者で一筆ごとに丹念な調査を進めました。同様に第2小区は、水田や畑地帯の馬取萱、発地、油井、茂沢などで、戸長中尾董平(油井村)、副戸長市村清蔵(茂沢村)が先立ちで行きました。近代最初の土地調査といっても、測量器械も航空測量もなく、すべてが人力による調査でしたから、終了には年単位の時間を要し、長野県で地租改正作業が終了したのは明治9年6月でした。

 まず前段階とし、
(1)地券交付による土地所有者の確認。
(2)村々の土地境界の是正。
(3)隠田、切添、切開等の届け出。
(4)社寺所有地の官収。
(5)入会林野の整理。
(6)官民有地の区分。
(7)永小作地の処理などがされました。

 専門職でもない村人たちが、家業を投げうって奉仕した仕事でした。こうした人海戦術ともいえる調査は、前年に完成した「地券調査録」の地番、字地図、反別、高、地代金、持ち主などにより、一筆ごとに地目を拾い畝杭を立て見取り図を作成していきました。この費用は、ほとんど村の負担でした。

 土地丈量により面積が決定され、さらに収穫量が調査されて地価が決定しました。面積と地価の決定は、地租を左右するものだけに、難かしい問題が続々発生し、係と村民の対立もみられたようです。

 地価決定は、なかなか複雑な手順がとられました。まず土地の平年作反当収量を開申させ、小作帳等から算定した郡の平均反収を、各村の地位を想定して平均反収を決めました。さらに土地等級で収穫量を計算し、石当たり米価を三門94銭、大豆価を3円38銭として穀価を出しました。その上で税、種籾代、肥料代、村入用費など差し引いた純益に金利を考え合わせる、という複雑な手続きをとって地価決定作業がされました。

 その結果、田畑の土地台帳の面積は倍増しました。峠町は無税から、畑宅地あわせ9反5畝余が税地となりました。軽井沢村の場合は、田2町8反5畝21歩、畑57町9反一畝2歩が、どうしたことか田6反一畝21歩、畑33町8畝8歩に減少しました。前々川欠砂入引き地や、耕作不適地を植林などで、林野にでも変換したものでしょうか。

 地租対象地を村ごとにみますと、軽井沢の宅地と山林、長倉の山林、発地の山林原野に無反別無高があります。こうした土地の存在は江戸時代には許されましたが、近代土地制度では、税対象から外すわけにいきませんでした。無反別無高の特典の恩恵を受けてきた地域は、一躍何層倍にも増した地租対象地に困惑しました。

 明治7年7月の地租改正条例により、地租は収穫高標準税から地価百分の3の税率による金納となりました。新税法は9年から実施されました。福岡・島根・岐阜・大分などの諸県で、地租改正反対一揆が発生しました。とくに三重県では、一揆農民鎮圧に板んだ士族では手が足りず、名古屋鎮台兵が出動するなどしました。

 三宿の場合、宿場特典は無くなり、年々の宿手当も失いました。連年の旅行者減のなかで、地租納入は旧宿駅の衰えに拍車をかけることにもなりました。

 明治前半は国の税収の70〜80パーセントを地租が占めましたが、村々の納税のはとんどは地租でした。明治8年の長倉村の国税662門80銭4厘のうち、地租以外で納入の雑税は、わずかの一円50銭であり納入国税の0・2パーセントにすぎず、全額が地租といえる状況でした。僅か2年限りで、地租率は100分の2・5となりました。その原因は、地租改正に反対する国民的な高まりを無視できなかったからでした。

 維新以後も旧来の入会林野は、部落共有地として田畑肥料の刈敷、牛馬の珠、薪、木炭、屋根萱など刈り入れの場となっていました。とくに軽井沢地域は、追分原608町歩、雲場原179町歩、馬抗原36町歩などと、北佐久地方の原野が集中する地域でした。この原野が官民有区分がはっきりしないとし、地租改正時に官有地に編入されました。村民自身も租税負担を恐れて、′追分原、雲場原の酸立野68町、重野117町を放棄しました。

 所属が官有化しただけでなく、一旦村人の手を離れると国側は、明治11年2月には官有林野への立入りを禁止しました。農民は入会株場を失ったことで、飼料・燃料・緑肥など供給場所や野山の幸を与えてくれる場も失いました。そして林野につながる地域民の連帯も失っていきました。

 旧幕政時代の土地の入り組みは、想像以上に複雑なものがありました。明治政府の地租改正でも、村界が錯綜する場所は両村とも主張理由があり、簡単に決定できないところもありました。またよその村内にある飛び離れた土地の領有も、その成立理由や慣行上の問題もあり、面倒な事がらを含んでいました。

 地租改正で苦しんだ問題の一つが、この区画整理と改正にありました。明治9年(1876)3月と6月、県は地租改正事務局へ「信濃国村々飛び地組替」伺いを立てました。このとき合併前の長野県全体には、問題となる飛び地が316ヶ所ありました。そのうち佐久郡は104ヶ所と、約3分の一を占めていました。軽井沢地域では、国の裁定で油井と発地が2町8反余を交換しました。また発地は借宿へ2町4反を移しました。これは地租改正時に、後年の土地紛争を防ぎ、土地台帳の整備も考えた移動でした。
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