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軽井沢の歴史-13

 自然村から行政村へ、まだ小諸県や岩村田県があるなかで、長野県は明治4年4月町村の区画を定め戸長・副戸長を置いて、戸籍簿の編成にかかりました。近代国家づくりには、まず戸数・人口を明らかにするが第一とされました。江戸時代の宗門人別帳をやめ、県が一括して行う戸籍は明治政府が作成した近代戸籍といわれる「壬申戸籍」でした。四民平等を推し進めるなかにありながら、封建制の残る差別的呼称が記されたりした例もあったといわれます。

 明治4年(1871) に戸籍区(年表参照)が編成され、第一区は峠町、軽井沢、沓掛、追分、塩沢新田の中山道添いの6村・戸数490戸で構成されました。第2区は村数14、戸数472、中山道南部の村々、馬取萱、発地、油井、成沢新田、茂沢などに草越ほか7村がはいりました。戸長棚沢藤平、副戸長中尾董平でした。

 当時はまだ旧幕時代からの名主、組頭もおり、村独自の活動もしていました。そのため政府や県からの布達も、従来の村役人を通じて行うなど、ここにも2重構造の村運営がありました。また区長・副区長は、名主たちの監督をするという面も受持っていました。

 明治5年11月には県連により、戸長・副戸長が区長・副区長と呼ばれるようになり、名主・組頭を戸長・副戸長としました。こうして旧制度の残り部分を、新制度に組み込む作業が進みました。呼称と職制のめまぐるしい変遷は、行政上の画一化や県役人の支配を一本化することにありました。幕末から明治初年、村々は世直しや強訴の力もつけ、明治3年湯原村(現臼田町)のように、小前層が村役人のリコールさえしていました。そうした潜在的な小農たちの力を押さえるためにも、旧制度の温存は許されませんでした。

 明治7年7月にも区制が変更され、佐久地方は7大区・39、のち38の小区に再編成されました。村役人の構成も変わり、正副区長、戸長、百姓代を廃止し、あらたに官選による正副区長・戸長を任命しました。今まで村は生活共同体で固まり、日影通りの2区などは馬取萱から横根(現佐久市)までも、広がる中馬稼ぎの一帯でした。これが分断されて、便宜的な行政単位となりました。

 正副戸長には等外官吏に準じた地位を与えて、職員録までつくり、完全に支配機構の末端化をはかりました。仕事も戸籍事務から始まり、風俗取り締まり強化、学校保護・孝義奇特者の表彰、水利堤防、道路、開拓、殖産に注意などと、十指に余まるほどの負担を背負いました。行政区画の村と任命役人は、生活共同体と自治役の自然村に、布達徹底がスムーズにできない面を残しました。

 したがって旧習を活用し豪農層をたて、村政をせざるをえませんでした。代議人制も始まり、5人組を10戸単位に一名の割で、小前一同の入札で代議人を選びました。村用掛も、正副戸長と代議人の入札で選出するなどにしました。「私意ヲ去り万事公論2決スヘン」(区画条例 長野県布達)の意もあり、村運営は協議調整されるようになっていきました。

 明治9年8月には長野県と筑摩県が合併されて、旧筑摩県の飛騨は岐阜県にふくまれ、信濃国一円が一県として成立しました。これは政府による地方行政区画の統一策でした。こうしたなかで、土地制度と土地課税の変革、地租改正の大事業が明治8年4月から始まりました。
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