■軽井沢の歴史01
■軽井沢の歴史02
■軽井沢の歴史03
■軽井沢の歴史04
■軽井沢の歴史05
■軽井沢の歴史06
■軽井沢の歴史07
■軽井沢の歴史08
■軽井沢の歴史09
■軽井沢の歴史10
■軽井沢の歴史11
■軽井沢の歴史12
■軽井沢の歴史13
■軽井沢の歴史14
■軽井沢の歴史15
■軽井沢の歴史16
■軽井沢の歴史17
■軽井沢の歴史18
■軽井沢の歴史19
■軽井沢の歴史20

21
  22  23
24  25  26
27  28  29
30  31  32
33  34  35
36  37  38
39  40

軽井沢の歴史-11

  世相不安のなかで、たびたびの降灰と凶作の気配に天明3年(1783)の再来と浅間根腰の人々が、動揺したのは明治2年(1869)の夏のことでした。天明の大焼けは、碓氷峠の降灰は5尺、軽井沢宿が4尺も埋もれ、被害は沓掛までおよびました。そのあと凶作が続き3分・4分作となり、命をつなぐに藁、クズ、ワラビ、ドングリ、草根木皮まで利用しました。そうした天明被害の再来を心配したり、あいつぐ噴火を浅間の怒りと恐れる人々もいました。

 日影通りの発地村外11力村は困窮し、村々の不安動揺は激しく、収拾できないパニックの心配さえありました。神仏に祈ることが一番であった時代のこと、8月26日、鼻曲峠まで登り峠町神官により鳴動鎮静祈願がされました。しかしその後も収る気配もなく冷夏が続きました。そのため伊那県支配下にあった追分の宿役一同は、困り果てた実状を、御影役人に書きおくりました。御影局から伊那県そして政府へと状況が伝達され、勅使による浅間山鳴動の鎮静祈願が計画されました。

 9月20日に勅使下向が伝えられ、追分宿では仮幣殿を建築し、祭典準備に入りました。御影局からは、佐久郡内村々に勅使による神事を伝える一方で、勅使一行の祭典へ不敬のないよう準備がされました。

 24日に北小路押紙大祐・橋本押紙小史一行を迎え、追分宿東方の造拝所で神事が行われました。祭典には伊那県、御影局などの県官も出張し、小諸鰻憎嵩もありました。琴借宿・沓掛・軽井沢4力村ほは、村役人が誌織姿で参列しました。

 神事は奉幣使から追分「浅間大神」の勅号が授けられ、勅書に幣南の数々が供えられました。厳粛のなかに宣旨され、浅間山鳴動鎮静・五穀成就・万民安穏を祈り、山霊を祭り平穏の祈蒔をしました。23日到着の一行は、26日に浅間大神勅祭のすべてを終わり帰京しました。

 維新政府のとった処置は、不安定な政局下の人心収携上で意義がありました。鳴動を鎮めるというよりも、不安で騒動でもという村々やパニック寸前の村方の気配に対し、鎮静剤的効果をおよぼしました。

 科学面の遅れていた当時のこと、神頼みといえば保健衛生面も同様でした。
「なんばんころり(コレラ)」
がはやったため、軽井沢宿で門松を立て、「はやり正月」をしたのは、5年5月のことでした。明治初年は正月を再び迎えることでコレラ退散を願うほど、衛生思想も予防法も非合理なことがまかりとおっていました。当時、佐久の村部では、加持祈繭や悪魔払いで疫病は治るものと思われていました。
 
そのため、明治4年に小諸汎愛社が種痘所を置き、7年に春日・芦田両村と追分にも種痘出張所ができても、迷信が強く人々は施術に逃げ腰でした。12年には郡医員が決まり、翌年には村ごとに衛生委員も置かれました。だが各戸の予防法や治療は、売薬や薬草利用は上の部で、呪符やお守り札が戸口や神棚に幅を利かせていました。
北軽井沢物語軽井沢観光ガイド軽井沢グルメガイド