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軽井沢の歴史-10

 宿駅の収入は、宿民の支出金で、それは人馬の休泊料がもとになっていました。だが実際には、人馬の維持などが多く赤字が多かったです。そのため三宿の財政は、江戸時代を通じていつも窮迫し、赤字切り抜け策は幕府からの拝借金や借金で乗り越えていました。幕末から明治初めの数年は、混乱と騒動の時代でした。水戸浪士の侵入、戊辰戦争、偽官軍、世直し一揆等々は、宿経済にとってマイナス要因ばかりで、駄賃増加や宿泊費倍加は望めませんでした。

 さらに明治政府によって宿駅制度は大変革をとげました。すなわち、明治元年4月には京都に宿駅役所が設けられて、従来の道中奉行所にかわりました。これは間もなく駅適役所と改められ、さらに駅逓司となりました。同年3月には助郷制度も改められました。3年には本陣、脇本陣の名目も廃止されました。

 その間、維新後の交通量は、停滞から減少傾向に進みました。かって参勤交代では、加賀藩主が宿泊しますと、軽井沢宿では一晩で2ヵ月分の水揚げがありました。ところが、新時代にはいって参勤交代にあたるような大がかりの移動もなく、せいぜい善光寺や妙義山・榛名山の参拝者、伊勢講中の旅行者くらいでその収入もたかが知れていました。

 軽井沢宿は峠の難所をひかえて、宿泊者や駄賃稼ぎで生活する者が多く、水田は無く、畑の地味も悪く収穫も思うにまかせませんでした。

 明治5年8月末には、宿すなわち伝馬所や助郷が廃止され、陸運会社で自由に営業することになりました。10月8日夜には、軽井沢宿の伝馬所の諸道具が私物となり、組々へ入札が申し渡され伝馬所の廃止とともに追分の貫目政所も廃止され、10月には追分宿の土屋13から貫目政所の建物の払い下げ願が大蔵省にだされ、20円で払い下げ許可されました。

 女郎廃止の触がでたり、往還道を掃除して馬車・人力車通行の便を図るなどしました。明治4年12月は三宿とも不景気で年末は「銭のくるいで諸色値上がり、大晦日至極金つまりにて、宿中迷惑致侯申」 と記した武助は、翌年末にも「追分も誠二ひっ足女郎屋も休み居り、其えんりょにて掛取も不出由」と連年の宿の動向を伝えています。武助ら旅寵屋以上に困ったのが輸送関係者で、仕事にありつけない駕寵かき・駄賃業者など困窮人は救護を受けて年越しする始末でした。

 沓掛宿は田畑を周囲に持ち、宿屋経常のかたわら農業もしていましたから、打撃のショックは少なかったです。林業や付近村々を相手の商売、それに草津・大笹方面への道の分岐点で草津などへの湯治客送り、吾妻地方との物資移出入などに収益を求める者もありましたから、三宿の中では比較的交通自由時代の被害は少なかったです。

 追分は、宿泊客や飯盛女の稼ぎに一辺倒の感がありました。6年には陸運元会社が、陸送荷扱い所を開設し、旧問屋が先きだちで宿継ぎや仲馬稼ぎの仕事にあたりました。しかし江戸時代のような稼ぎはなく、衰退は加速化していったようです。
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