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軽井沢の歴史-09

 慶応4年2月、年貢半減をかかげた桜井常五郎らの軍事行動は、偽官軍という名で追討されました。追分戦争といわれる小諸藩兵と響導隊の戦いは、2月18日の夜明け大黒屋止宿の隊員の寝込みを襲って始まりました。鉄砲の音を聞き、軽井沢・沓掛の両宿に泊まっていた響導隊員40人はどが追分に駆けつけました。

 鉄砲を撃ちかけ、内外呼応し宿に放火しました。

 追分は戦争状態となり、手負いや、切り捨て生け捕りもありました。やがて御影陣屋の手勢も駆けつけ、逃亡者の探索をしました。ところが宿内の掃討を完全にせず、隠れた一隊を残したまま小諸藩兵らは引き上げてしまいました。そのため燃えさかる家々を消火しようとすると狙撃され、危険で神田坂東の10数軒が焼失しました。

 泉洞寺住職は僧衣で、浅間山神主は祭服で同道し、怒り狂う隊員と交渉、やっと消し止めたという一幕もありました。彼らは大黒屋主人に案内させ、収監された仲間6人を救いだし碓氷峠に向かいました。しかし安中藩手勢と遭遇し一名は討ち死にし、15名は生け捕りとなりました。また中山道を西へ向かった20名は、岩村田藩に捕らえられました。

 西村護吾・大木四郎らは岩村田薄から、下諏訪の総督府に護送され死罪となりました。御影陣屋に捕らえられた桜井常五郎ら11名は、3月5日追分の刑場で処刑されました。桜井ほか2名が死罪、他は片びん片眉落としなどで追放となりました。そのあとを追って朝廷の「官軍」が「錦の御旗」をかかげて登場してきました。東山道を進む官軍に対しさまざまなうわさやデマがありました。

 信州諸藩の新政府への対応は「慎重」で日和見的でした。佐久の領主たちもまた、官軍に抵抗か、恭順かに迷いました。

 徳川慶喜征討軍が信州へ入りますと、2月23日岩村田・龍岡両藩は、東山道軍の宿陣先の洗馬・塩尻両宿へ人馬を差し出し兵食賄い方をつとめました。龍岡藩は米500俵を持ち兵卒と共に出張し、官軍の給養と輸送にあたりました。岩村田藩も卒48名人夫500名と駄馬80頭をもって、両宿の東山道軍本営に出動、龍岡津とともに賄い方と継立をしました。これに対し小諸藩の対応と御影陣屋の行動は一歩遅れていました。

 小諸藩は3月3日に至り、和田宿まで進んだ東山道軍の岩倉総督に拝謁し、3通の書を提出しました。伺い書は在邑すべきか上京するべきかを伺い、一書は東山道軍として出兵を仰付られたい旨を記しました。また願書は徳川慶喜に寛大な処置をというまことに典型的な三善でした。ところが龍岡・岩村田両藩は、2月中旬以来官軍糧食を賄い、駄送につとめました。金銭が不足すると両港連帯で、同宿所管の尾張藩より、500両を借り入れ務めを果たすのに懸命でした。

 東山道軍が佐久平に入ったのは、3月2日のことです。先鋒をつとめる大垣の一隊500名は、3日には碓氷峠を占拠し坂本宿を押さえていました。総督府は4日に八幡宿に進み、約1000名が本営を固め、薩摩・長州などの軍勢1700名が塩名田・御馬寄に駐在しました。殿軍は望月・芦田両宿に分宿し、兵力は約3000といわれました。

 この時小諸藩は一小隊で本陣前後を警衛し、重臣総出で長久保・塩名田間5宿の兵食の賄いと継立・調度を担当しました。総督に替馬一頭を従者2名とともに差し出し、軍用手当として700両、玄米300石、鉛200貫、合薬100提供の請書を提出するなど、腫れ物に触る姿勢をとりました。

 4日、岩村田港内藤志摩守が、八幡宿本営に出頭し面会を求めたが拒絶されました。あわてた藩は、病床についた藩主にかわり家老代牧野林平をたて謝罪につとめました。その結果五目から20日まで謹慎が命じられ、出兵命令までだされました。命令には、藩兵の戦功により藩主への特別沙汰もあろうと示されました。そのため岩村田藩は急鐘合図で兵を集め、6日早朝出発し坂本宿に馳けつけさせました。6日小田井宿宿営の官軍3000余名から、野沢・中込両村へ兵糧仕出しが命令されました。村民は白米20駄、塩引き三駄、豆腐300丁などを用意し、炊き出しは村役人が指揮する騒ぎでした。

 龍岡藩は5日に追分に進んだ本営をみて、何ら非難処罰はなかったと安堵しました。ところが25日に至り謹慎を命じられました。あわてた家臣は謝罪と歎願に奔走し、29日の北越出兵と閏4月2日の上州の境の南牧関の守備を引き受けました。官軍側のやり口と知りながらも、小藩は「勝てば官軍」の命令にしたがうほかありませんでした。三宿の気遣いも、追分本営ほか宿村の心遣いも、通過地点の諸相同様でした。

 東山道軍の総督は、岩倉具視の子具定でした。少年総督は白地錦の装束に烏帽子姿で副総督の具経も赤地錦の装束でともに馬上にありました。菊紋章入り紅白2流の錦旗が、官軍の徽章「錦の御旗」として、あたりを圧しつつ中山道を進軍しました。沿道の宿村民には、洋式舶来銃を肩に筒袖ダンプクロの兵士の姿は、新しい時代の幕開けを感じさせるものに見えたでしょう。

 小諸藩は東山道軍から碓氷峠の警衛を命じられ、さらに3月26日には北陸道総督が小諸城下に宿陣すると警護につき、翌日は総督軍を藩填まで警固しました。25日には碓氷峠の頂上へ関を設置し、杓子町に2小隊130人の兵隊を派遣しました。欠継ぎはやの指令は、28日に御用金700両とともに玄米300石代として1200両、計1900両の差出を命ぜられました。藩は急いで全額を4月3日板橋の本営に届けました。つづいて29日には尾張藩に属し、北越への出兵を指令されました。これに対しては、兵力が少なく碓氷峠の守備で手一杯と伺い書を出し、北越出兵を免ぜられました。碓氷峠の関が廃止され、守備隊が引き揚げたのは、北越征討軍が凱旋通過後の11月4日のことでした。

 東山道軍に所属し関東に進んだ岩村田藩兵72名は、はじめ総督本陣馬廻りという親衛隊となりました。その後転戦し下総の流山の戦で近藤勇を捕らえたりしました。下野(現栃木県) の小山の戦闘、宇都宮宿の激戦と働きました。岩村田隊72名は、農兵が58名を占めるなど、ここにも武士の時代の終わりが現れていました。

 北越戟争には岩村田藩兵61人、龍岡藩兵82人が出動しましたが、構成は農兵や譜代兵が多かったです。長岡の幕府軍・水戸藩兵・新発田・長岡・仙台・会津など連合軍に対し、官軍側も二二藩連合の1万2000余で対戦しました。宮下村の血戦とか長岡城攻防戦などに活躍し岩村田藩兵は10月20日、龍岡津兵は24日にそれぞれ凱旋しました。戊辰戦争の戦死者は龍岡藩4名、岩村田藩2名でした。岩村田では、明治3年招魂社をつくり、戦没者を祀りました。戦功賞は龍岡津へ5、000両、岩村田藩へ2、000両が与えられました。

 内戦の余波は長岡藩の敗戦後に、近縁の小諸藩を巻き込みました。山伏姿の使者から伝えられた長岡藩の内意は、家名存続を小諸藩より歎願してもらう依頼でした。ところが長岡藩脱走人の件が、政府役人に密訴されました。あわてた小諸藩首席執政加藤六郎兵衛は、徒党30余を集め、脱走人をかくまった牧野・真木・高栗・高崎の藩要人4人を斬殺し、事件の渦中から逃れようとしました。

 この一件に小諸藩内は不安の極に達しました。その結果、藩主牧野康済が謹慎し藩士数10名が処分されました。また岩村田藩でも、脱藩者大原秋治が城内に乗り込み、郡奉行牧野林平以下を処刑しょうとしました。しかし領民の反対や藩士の訴えにより、牧野ら3人は松代藩預かりとなって内紛は鎮定しました。ともに戊辰戦争の余波といえる藩を危地にたたせる事件でした。

 凶作と内戦の混乱、それに世直し一揆の続発と拡大で、世相は不安定きわまりなかったです。官軍側政府は民心獲得のため、数多くの甘言や建て前だけのアピールをしました。だが年貢半減令の取り消し、ニセ札・ニセ金の横行、官軍の横暴等々がありました。「御維新」に期待する人々の夢と願いはつぎつぎと裏切られることになりました。
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