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軽井沢の歴史-08

 連年の大洪水や凶作で、借宿・塩沢の村が貯穀の稗を、2人につき一斗五升五合のわりで貸し出したのは、慶応2年(1868)4月でした。6月には調査がされ、7月から安米売り渡しを始めました。冷夏で秋作の見通しもなくなりますと、昨年秋以来、商人や豪農に握られていた貯穀は、米価上昇を見越し流通が絶えてしまいました。

 8月15日夜のこと軽井沢宿の困窮民たちが群れをつくり、奈良屋・京三度屋・三度屋に乱入、勢いをかりて沓掛宿の困窮民も加えて借宿へ押し寄せました。同宿の布屋3軒を打ちこわし、山木屋伝右衛門で米安売り強請の書面を取り、追分宿に押しかけ炊き出しをさせました。

 村民一統が加勢しなければ焼き打ちするのおどしで、追分村民も加え小田井境までも進みました。まさに世直し騒動でした。追分からの注進で幕府代官の御影陣屋は、天下の街道の騒ぎだけに配下を送りこみ、武力で追い返し首謀者と思われる先立ちを捕らえ鎮静させました。米産地の佐久平酒屋仲間が申し合わせ、酒造すべてを本年に限り休止しました。冷害の多い日影通り村々が、難渋振りを書きあげて、陣屋に貧民救助を願ったのもこの年のことでした。

 沓掛宿・追分宿・借宿では、宿内困窮民を調査し書き上げて、各戸ごと人数に応じて桝高を決め「安米買請通帳」を渡しました。米屋を指定し毎日代金を払い、人数を確認して売り渡すという米の乏しさでした。

 発地ほか諸村から夫食(ふじき)拝借願が出されるほど、村もさし詰まっていました。宿々の願いや村々の拝借要求に、御影役人は飢饉対策もなく、
「いずこも同様品不足故、一同粥食で凌ぐよう」
という薄情さでした。

 11月には茂沢の百姓が集まり、江戸行きの御影代官に田方課税率引き下げを歎願しょうとしました。ちょうど郡中取締役の6力村名主が通りかかり、総百姓を説得し、名主たちの歎願で事なきを得たほど急迫していました。慶応3年にも凶作は続き、発地相からは畦根3尺通りを草刈りして飯米にすることを許可してほしいと歎願書がでました。

 慶応2年から3年にかけて、佐久地方の凶作ははなはだしく、高冷地の川上諸相や南北の相木村などでは、田方皆無の嘆声すらありました。機会をねらう穀商・穀師・酒屋・大地主などの買い占めや売りおしみがされました。そのため品不足と先ゆき不安から米価高騰ははなはだしいものがありました。

 慶応4年2月の上州の下仁田町焼き打ちに始まる世直し一揆は、3月10日上州西牧の本宿で勢揃いし、ほら貝を吹きならして内山峠を越えたその人数も数千人ともいわれます。11日昼ごろには佐久郡内山村の豪農竹花善左衛門に押し入り、米150俵の安価での上州差し送りを約束させ、本郷に下って酒造屋駒村儀左衛門に酒一升代2匁の安売りを約束させ、張り紙させました。

 つづいて平賀村に下り荒物屋三河屋茂助宅を打ち潰し、騒動に合流した内山村の貧民の質品無金返還などが拒否されたため、金子財宝を奪い帳面や家財を焼き捨てました。彦兵衛方でも四百駄を一駄二両二分で本宿渡しを約束させ、小松屋喜兵衛にも強談し米二百駄を彦兵衛同様の条件で約定を結ばせました。2手に分かれた一隊は瀬戸村に至り、柳沢半兵衛方に乱入し、米の安売り、質品無払い差し戻しの約束をさせ、そのうえ家財を打ち壊しました。彼らは志賀村へも進み、神津半兵衛にも襲撃をかけるなどしました。

 翌12日には、千曲川を渡って野沢村から取出・本新町・臼田といった佐久米移出地帯の村々に入り、前日同様な米穀安売り強請をしました。そのうえ岩村田藩に捕らえられた仲間を、臼田村役人に迫り貴い受けさせ、一団となって余地峠から上州へ引き揚げていきました。

 このとき平賀村から道を北にとった100人余の一隊は、横板村に進み豪農三郎右衛門に対して米の安売りを約束させ、日影通りを進みました。追分宿に現れた一隊は「日影通梨沢村・久能村・広戸村虜馬取萱村江相掛り、村々之者共罷出テベく、不出おいて者焼払侯与大音2申侯間」(町資料館文書)と、一揆への参加を強要しました。梨沢・久能・広戸・馬取萱などの村々からも、一揆につきしたがい、追分宿に現れました。先月に偽官軍事件で追分戦争ともいわれる戦いと、6余軒欝卸恥納れ乃追分宿では、一揆の無事通過を策としました。一揆との交渉は泉洞寺でされ、一方では一団に酒食を供応しました。その結果、打ち壊しはありませんでした。が、大黒屋は80両、油屋も45両を差し出し、永楽星・正木屋・井幹屋も各10両を出金しました。

 そのあと一隊は東の借宿村の穀屋の征伐に向かいました。当時入山峠越えなど上州道の分岐点にあった借宿の穀屋連中は、米穀の買い占めで倍宿相場を仕立て売り捌くほど力がありました。そのうえ雑貨など継荷や荷送りにも、口銭まで取り立てる隠然とした権力も持っていました。一揆勢力が見のがすはずがありませんでした。あらたに初鳥谷方面から日影通り(佐久から入山峠や和美峠など通って上州へ入る道)を通って押し寄せた困窮民100人も合流し、気勢があがりました。穀屋作右衛門は当時、酒販売・質屋・穀屋を経営していましたが、穀安売りを強談され、金品を奪われました。他の穀屋へも同様な要求がされました。

 襲った一隊には発地・馬取萱の百姓たちもいました。

「協力参加すればよし、然らざればその村を焼き払いますよ」

との恐ろしいふれに、小前の若者たちは村役人の制止も聞かないで、その群集の列に身を投じて梨沢方面に向かったとも言います。焼き打ち制裁という脅迫に、仕方なく参加した村民もありました。

 一方では世直しへ、積極的に加わった者もありました。彼らは、世直しに同調し同一行動をとりました。

 米価高騰が打ちこわし原因となり、また下層農民が主体となった一揆は、天明3年の上信世直し一揆以来何回となくありました。今回同様に、侵入道すじの佐久農民を巻き込み勢力を拡大しました。世直し、世均しの旗印が佐久の貧農層の心をとらえましたし、一揆自身も地元困窮民の要求する質物無代返還や証文類の破棄さらに借用金の全額ないし半額免除などを取り付けたりしました。日影通り8力村の場合も、ただ経済的な窮迫という共通点だけでなく、米の販売と駄賃稼ぎの場でもありました。一方では西上州側の養蚕や畑作も佐久米の安定供給があって成立していました。峠を境に分業と共存の関係がありましたから、穀値つり上げを許せない怒りもありました。それゆえ日影通り村々の発地はじめ馬取などのように、一揆への積極的な参加者もありました。

 追分や借宿を荒らした一揆は、日影通り各村の中馬仲間も加え小田井宿へ進みました。夜の暗闇にまぎれ村々に逃げ帰った者もありましたが、一隊は、宿に岩村田藩兵の警備ありとの情報を得て、裏道伝いに御影に出ました。ここは前年10月まで幕府天領支配の陣屋が置かれ、当時、伊那県御影役所がありました。

 幕政から天皇制へという内乱時の真空状態での騒動だけに、役人たちの対応も遅れましたが、岩村田・小諸・田野口藩兵や、御影・中之条両役所の役人たちも、鎮圧の態勢をかためました。彼らは続いて小諸領の森山村に押し入りましたが、守備の小諸勢に追い散らされました。翌13目早朝には御影役所は鉄砲方をもって山狩りしました。とらえられたのは佐久側農民が多く、上州の困窮民は少なかったです。

 一揆騒動は西上州からといいますが、この年西上州から10石・余地・内山などの峠を越えて、佐久の南部にも侵入しました。南北相木村民などが呼応して、小海村の豪農を襲いました。佐久地方は慶応2年から明治2年にかけて、気候不順・冷害・洪水などが続きました。慶応4年には、名古屋藩預所へ年貢納入日延ベで、2、000人が強訴しました。また明治2年には、小諸領川西33力村の一万人が年貢拝借強訴とか、小作料引き下げなどの要求を続けました。

 不作と連鎖反応的な農民蜂起が続きますが、慶応2年9月、西上州と佐久地方の米が養蚕をとおしての連帯と共存の状況を知らない伊那県は、不作を理由に佐久米の県外移出を禁止しました。上州農民は信州側の背信を非難し、対抗手段として塩の駄送停止を行いました。たちまち両県とも世情不安な動きが起きました。あわてた岩鼻県は、佐久への塩移出に責任をもち、伊那県側も上信国境の峠に上州巣米世話人をおき、米の移出をして危機を回避したのでした。
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