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軽井沢の歴史-04

 昭和26年(1951)「国際文化観光都市建設法」という特別立法が国会を通過しました。この法律は軽井沢町のみを対象としたもので、

「世界において稀にみる高原美を有し、すぐれた保健地であり、国際親善に貢献した歴史的実績を有する」

 軽井沢の地域開発の健全化のため、法的に規定したものです。

 軽井沢が外国人によって開かれた避暑地であることもあって、開発当初から国際色豊かなリゾートとして発展しました。キリスト教教会、外国人墓地など独特の雰囲気をもっていますが、それらが既存の旧中山道の宿場町や周辺の農業集落と何ら違和感がないほど、景観的に調和しているところに、軽井沢のもつ風土の特色が見出されます。

 避暑地軽井沢の社会的環境が、清潔で長い間俗化しなかったのは、宣教師を中心とする外国人の努力によるところが大きいです。大正5年(1916)ダニエル・ノルマン、島田三郎など内外の有志によって、避暑客の自治組織である財団法人軽井沢避暑団が設立されました。同会は「低俗に陥らない保健の聖地としての軽井沢」の維持に努めてきました。

 この結果「飲む、打つ、買う」といった風俗営業を一切認めないという、いわゆる「軽井沢憲法」が、この町の不文律になってきました。

 軽井沢避暑団は昭和17年(1941)財団法人軽井沢会に改組されましたが、こんにちでも軽井沢文化協会、キリスト教系の軽井沢矯風会とともに、町の風俗維持に努めています。「国際文化観光都市建設法」や町の誇る条例の制定もあって、静寂な避暑地としての伝統を守ることに努めています。

 昭和30年代以降、観光の大衆化が進み、一部に歓楽街化が進んだりして、その俗化が識者に欺かれています。しかしメインルートから横道に入りますと、そこには清潔さと静寂さを兼ね備えた別荘地が広がっています。

 軽井沢よりいち早く避暑地になった栃木県の中禅寺湖には、外国人別荘が建てられましたが、大きく発展することがありませんでした。その主要な要因は、東京からの交通の便が、軽井沢ほどよくなかったからです。

 ところが、軽井沢においては明治26年(1893)新碓氷峠にアプト式軌道鉄道が敷設されて、信越本線が全通しました。明治30年には東京-軽井沢間に電信が開通しています。新幹線が開通した今は一時間に短縮されています。

 軽井沢の入り込み客をみますと、週末毎にピークがみられます。これは熱海や箱根同様、軽井沢は東京大都市圏の近郊であって、週末旅行地になっていることを示しています。この週末旅行地としての性格は、今後さらに強まるものと思われます。

 軽井沢町における観光客数は、昭和48年以来700万人台を超えています。その後経済の低成長期を迎えても入り込み客数は減ることなく、着実な伸びを示しています。この事実は観光地としての軽井沢の知名度が全国的に高く、また多くの魅力を備えていることを示しています。

 しかし、月別の入り込み客をみますと、7、8の両月に全体数の55・7パーセント、これに6月、9月を加えると76・2パーセントまでが夏期に集中しています。盛夏には常住人口(1.5万人)の10倍、15万人の入り込み客をみる日があります。しかし、花と新緑が美しい春から初夏、紅葉の秋、スキーとスケートの冬はすばらしい季節であるにもかかわらず、入り込み客が案外と少ないのが現状です。
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